simmerのブログ-いのちの食べ方

今月の定例会のお題になっている映画、『いのちの食べ方』(ニコラス・ゲイハルター監督/2005年)。


さまざまな食材がうまれ食卓に並ぶまでのプロセスを追ったドキュメンタリー。


ナレーションも音楽もなく、出てくる人々の会話も拾われておらず、ただ淡々と、野菜が収穫され牛や豚や鶏が食肉になっていく様を追い続ける。


「ファインダーを通したそのときから、写真はニュートラルではなくなる」というけれど、音もなく、ありのままを映し出す映像は、静かでいて鋭く主張する写真集のよう。


広大な農地、牛舎や養豚場、養鶏場、はては屠殺場まで、完璧なまでのオートメーション。


それは、食材を途切れることなく食卓へはこぶために、誕生から終焉まで、いのちを一括管理した人間の知恵。


そしてそこで超効率的に作業を進める従業員たち。




すべては、人間がそれらを食して生きるため。




農作業の合間にコーヒーを飲みながら休憩する人、食肉加工工場の食堂で食事をとる作業員。


当たり前のことだけど、この人たちも、いろんなものを食べて生きている。


野菜にも牛や豚や鶏にも、同じようにいのちがある。


でもやはり、人間と同じように目や耳や手足があり、心臓があり、そして感情もわかりやすい牛や豚や鶏が、人間のためにそのいのちを終えるとき、正直目をそらしたくなる。


自分の30秒後の運命を察して、震えが止まらない牛もいる。


でも、そのいのちをいただく人間のひとりとして、これは聞いて知っているだけではなくて、現実を見ておかなければならないこと。


そして、こういった職業は究極の営みで、人間にとってなくてはならないもの。


他のなにはなくとも、食べなければ人は死んでしまうから。


その現場で働く人々にも、敬意を表したい。


森 達也さんが「屠場で働く人々を撮りたい」と本の中で言っていたけれど、こういうことなのかもしれない。


当たり前のようにスーパーに整然と並び、今日も食卓で温かな美味しさをあたえてくれる食材たち。


いきものが人間のためにいのちを終える瞬間を目にしたときに、こみ上げてくる自分の感情が何なのか、まだ自分でも説明がつかないし、食べ続けることを止めることはできない。


でも、そのありがたさは、あの怯えた牛の表情とともに刻み込まれた。