ウィーン犯罪博物館訪問記(泣)  第3章 | おかるとぶろぐ

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"Fain would we remain barbarians, if our claim to civilization were to be based on the gruesome glory of war."
Kakuzo Okakura

(前回の続き)

あああ、なんてこった。本来なら、犯罪博物館には友達と二人で遊びに行く予定だった。その友達は、私の誕生日プレゼントに、どこでもいいから博物館の入場料をおごってくれるという約束してくれたのだ。だが、その子も最近忙しくなかなか会えないので、その日の思いつきで犯罪博物館に行くことにしてしまった。普段から単独行動が多い私も今回ばかりは恐ろしさに耐えられず、「頼むから誰か私の横に
いてーーーーーーー」と、今回ほど強く願ったことはない。

ウィーン犯罪博物館鑑賞後のショックがようやく治まってきて、数週間も滞っていたブログの続きを書ける心境になりつつある。なんで今回に限ってこんなに多大な衝撃を受けたのか、自分でもよく分からない。今度、また別の友達と、解剖学的資料やモデルを集めた博物館に行こうと予定しているところなのに、本当に大丈夫なのか我ながら心配になってきた。

ともかく今回は、出だしとして19世紀半ばについての展示と、「ウィーンにおける女性の凶悪犯罪と死刑の歴史」について。今までの章に比べてもやや長文だし、おぞましい内容なので、お時間と気力のあるときにどうぞ。

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19世紀半ば

19世紀半ばの展示のあたりは、なんだか足早に通り過ぎてしまって、よく記憶に残っていない。1848年にウィーンで起こった市民革命時のリンチ殺人や、その余波であるところの皇帝フランツ・ヨゼフ1世暗殺未遂事件など、政治的犯罪として注目すべき事件が紹介されていたのだが。19世紀の終わりにウィーンで発生した大事件として、犯罪史上もう一つ重要なのは、当時主に軽歌劇を上演していたリング劇場の大火災であるという。

1874年に開館したばかりだったこのオペラ劇場では、当時ガス照明が使われていた。1881年12月8日(この日はキリスト教の祝日)、ちょうどオッフェンバックの「ホフマン物語」上演直前に観客が着席し終わったころ、舞台裏の点火装置の故障によりガス漏れが発生し、再点火時に大爆発が起こってしまった。猛火は観客席にまで広がって、当時は珍しくなかったであろう安全対策の不備も手伝って、劇場は全焼、多くの関係者や観客たちが逃げ遅れ、あろうことか、死亡者は384人にも及んだという。

この大火の後、ウィーン市に救急組織が結成されたり、劇場における安全対策などが整備された。ほぼ400人にも及ぶ死亡者の身元確認作業と記録は、後の鑑識技術の発達につながったというからなんだか皮肉な結果である。ちなみにこの展示箇所では、火災での被害者でおそらく子供のものと思われる、身元不明の黒焦げの頭部の遺体が展示されている。現在でも上演される楽しいオペレッタであるはずの「ホフマン物語」を、おそらく大人について見に来ていた子供だろうか・・・。

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ウィーンにおける女性の凶悪犯罪と死刑の記録

(ここからはややグロな描写がたまに入るのでご注意)

さて鑑識技術だが、19世紀も終わりに近づくと写真撮影技術が発明され、さっそく鑑識の分野にも応用されるようになる。というわけで、その頃の展示に入ってのっけから目に入ったのが、天井から吊られた大パネルに展示された、凄惨な殺人事件現場の写真であった。ベッドに寝た裸の女性の下半身が、パックリ縦に割かれて大きく開かれている。あまりびっくりして、いつ発生した事件か確認するのを忘れたが、とにかく19世紀末から20世紀初頭の撮影であることは間違いない。ウィーンの娼婦が猟奇殺人の被害に遭ったということらしいが、この切り裂きジャックまがいの事件発生当時、カラー写真技術がまだ発明されていなかったことを、内心有難く思ったほどであった(ちなみに、切り裂きジャック事件が発生したのは1888年で、見るに堪えないほど凄惨な遺体の白黒現場写真が残されている)。

このように女性が被害にあう事件は、実際博物館の展示の多くを占めるのだが、女性が加害者である事件もいくつか紹介されている。「女性はか弱く、男性により守られるべきもの」というレディーファースト文化の下、女性は心身ともに死刑など耐えられないと考えられており、ハプスブルグ帝国内では女性が死刑判決を受けてもほぼ毎回特赦が授けられたという。


テレジア・カンドル 

ウィーンにおいて最初で最後の女性に対する公開処刑が行われたのは1809年で、夫殺しの罪に問われたテレジア・カンドルへの絞首刑だった。テレジアは、ブロンドの髪と青い目を持った、大変若くて魅力的な女性だったというが、普段から年上で呑兵衛の夫の暴力に耐えていたという(と本人は主張した)。犯行当日、夫が寝込んだのを見計らって斧で頭をたたき割り、怒りに任せて体中に斧を振り下ろした。殺害後テレジアは、夫の遺体を桶に入れて路上に運びだして教会の脇に放置し、追剥の被害に遭ったものと見せかけようとした。捜査が進むにつれ、テレジアがある肉屋の主人と浮気していたことが発覚したため、その浮気相手の殺人への加担が疑われた。しかしこの浮気相手は、犯行時ちょうど兵役に出ていたために確固たるアリバイがあったというから、まるで今時のミステリードラマのようだ。1809年3月13日午前10時、ウィーン1区に今も当時とあまり変わらない佇まいで残っているホーアー・マークト広場 にて、テレジアは衆人環視の中、絞首台の露と消えた。このホーアー・マークト広場は、古くから公開の絞首刑や斬首刑が行われたいわゆる刑場の一つなのだが、この広場の脇には「アンカー時計」というからくり時計があり、日本の観光客にも知られた観光スポットとなっている。


ユリアーネ・フンメル

女性に対する、次の公開でない死刑執行は、それから90年以上経った1900年1月2日のことである。当時30歳だったユリアーネ・フンメルは、夫と共に自らの5歳の娘アナを故意に虐待したのち死亡させた。上記の通り、ウィーンでは女性の死刑判決には特赦が与えられるのがほぼ慣例化していたため、この時も皇帝フランツ・ヨゼフ一世はそれに倣おうとしたが、一般大衆のこれまでに無いほどの抗議の声を抑えきれず、夫だけが死刑を免れ、母親であるユリアーネのみの死刑執行が決定された。この死刑執行にあたって、それまでの死刑執行人の急死に伴い、プラハから代理の執行人が派遣されてきた。この執行人は、プラハで行われているという特別な死刑方法をウィーンで実施しようとした。この仮の執行人にとっても、女性の死刑執行は初めてであったため、記録によれば執行人は極度の興奮状態に陥り、体がぶるぶる震えてしまう始末だった。おまけに例のプラハ仕込みの絞首刑の方法は、ウィーンで使われていた死刑台には向いていなかったため。おかげで死刑囚は、絶命するまでなんと45分も苦しみ続けるという残酷極まりない結果に終わり、その様子を見届けなければならなかった裁判所の立会人達は、途中で気分が悪くなるという体たらくだった。

ちなみに絞首刑というものは、女性に対しては、「風俗や品位に反する」とのことで避けられる傾向にあった。それでもあえて絞首刑が下った場合、女性の死刑囚の場合は、スカートを足もとで結ぶことが義務付けられていた・・・。


マリア・バルトゥネック

20世紀初頭の展示の見学を進めていくと、またしても残虐な遺体の写真が展示されている。解剖台らしきものに寝かされた女性の遺体には、肩から下の両腕と膝から下の両足が欠けていた。その上あたりに展示されている、おそらく遺体発見現場で撮影されたと思われる写真では、同じ女性の体がそれほど大きくない籠の中に丸まって納まり、毛布のようなものに包まれていた。これはお針子をしていた女性ルイーゼ・ヴァイスの遺体なのだが、この凄惨な犯行が、まさか被害者と同じ女性のものだとは、最初は全然思いつかなかった。

この被害者の女性には、生まれつき脊椎側弯症があった。これは先天的または後天的に背骨が湾曲してしまうことにより、背中が曲がったりこぶが出来たりする症状だ。20世紀初め、この症状にはまだ矯正や手術などの治療法はなかったようだ。その上、この当時の身体障がい者への差別は現在よりもずっとひどいもので、公共の場に出入りすれば嘲笑の的になったり、結婚は考えられなかったりと悲惨な状況であった。ということで、失望したルイーゼは、背中のこぶを催眠療法で治療してくれるなどうそぶいていたマリア・バルトゥネックのもとに転がり込んだ。ところがこのバルトゥネックはとんだ詐欺師で、ルイーゼ・ヴァイスはお針子としてこつこつと貯めた全財産を騙し取られた後に殺害された。バルトゥネックは遺体から腕と足を切り取って燃やしてしまい、胴体の方は上記の通り籠に入れて絨毯や新聞で覆い、玄関先に放置したという。籠に入っていた新聞の一部が抜けていたが、それがバルトゥネックの住居で発見された。バルトゥネックは後の裁判で絞首刑の判決を受けたが、終身刑に減刑された。


ヨゼフィーネ・ルーナー

おぞましい限りの犯罪の数々の紹介もこれで最後になるが、博物館のおびたたしい展示の中で個人的に最大の衝撃を受けたのがこのヨゼフィーネ・ルナーの犯行だ。たまたまこの事件の現場写真を見ているとき、幸いにもアメリカ人学生らしい3人組の男女が近くにいて、どんなにホッとしたことか。犯行現場に横たわる被害者の遺体の写真だったのが、一見してなんだか把握できなかった。時代がだいぶ下るので、この事件は現在でも年配の人々の記憶に残る恐るべき凶悪犯罪で、犯人のルナーは後に「サディスト」と称された。

件の遺体は、1935年の死亡当時15歳だったアンナ・アウグスティンで、ピアノ工房を経営していた裕福なエドムントとその妻ヨセフィーネのルナー宅で、家事手伝いとして雇われていた。ルナーはこの若い家事手伝いのアンナにありとあらん限りの虐待行為を加え続け、被害者はそれが原因で死亡した。遺体発見時の物と思われる写真を見ると、アンナは屋根裏のわらの上らしき場所に裸で横たわっており、骨と皮ばかりに痩せ細って男女の区別もつかない。男女の区別がつかないのは、頭部が真っ黒になっているからもある。説明書きを読んでいると、どうやらアンナは屋根裏に数日間閉じ込められていたようで、食事もろくに与えられずに連日虐待を受けていたようだ。衰弱しきって動くこともままならず、息も絶え絶えに屋根裏に横たわっていたところ、挙句の果てに、まだ息があるうちに頭に油をまかれ火を付けられて絶命したらしい。この辺りは記憶が違いがあるかもしれないが、展示の説明でその残虐極まりない犯行の模様の一切合財を読んで、「一体どうしたらここまでのむごい仕打ちが出来るのか・・・。」と言葉を失ったものだった。

夫の証言では、数日前からお手伝いのアンナを見かけなかったということで、そのころから妻のヨゼフィーネ・ルナーの様子がどうも異様であることに気付いていたという。ヨゼフィーネは、夫にアンナの死亡を告げる手紙を残して姿をくらましたが、死亡原因には触れられていなかった。隣人の証言により、ヨゼフィーネが普段からアンナに暴行を加えていたことが判明したのみならず、過去にも親族やお手伝いに何件もの虐待を働いていたことが発覚した。数年前には同じ罪で実際に6か月の服役刑を下されていたのだが、これは結局執行されることはなく、ルナー家にアンナが雇われることとなってしまった。

ヨゼフィーネ・ルナーは、マリア・バルトゥネックと同様、絞首刑の判決を受けた後に終身刑に減刑される。当時のウィーンの刑務所がどんなものだったか調べてないが、ともかくヨゼフィーネは運が良かったかもしれない。1932年に発覚したマルタ・マレックによる殺人事件の場合でも、家族と同居人を保険金目当てに毒殺した罪で、被告は一旦死刑判決を受けた。上述の二人の殺人犯と同様、マルタの場合もオーストリアの「慣例」通り終身刑に減刑されるだろうと考えられていた。ところが運の悪いことに、1938年にオーストリアはナチス・ドイツに併合された。ナチス・ドイツの総統ヒトラーは、これまでの統治者のように慈悲深くはなく、マルタ・マレックの減刑嘆願を撥ね付けた。さらにそのうえ、この女性殺人犯マルタ・マレックは、ベルリンやウィーンの刑務所に新しく設置されたばかりだったギロチンで斬首された最初の人間となってしまった。この時に使われたギロチン「F」(と名付けられた)は、後にナチスを批判する政治犯などの何千人もの首を切り落とすこととなるが、もちろんこれも犯罪博物館に展示されている。

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注 今回のブログはかなり多くの出典やリンクがあるので、これをまとめるだけで時間がかかりそうだ・・・。ということで、それまで待ったら公開が遅れてしまうので、出典は後々添付することとした。ショッキングな写真などが載っていたりするので、閲覧はあまりお勧めできないが。