上野恩賜公園 西郷隆盛像
仕事で上野に行く機会があり、仕事の合間にダッシュで
今更、西郷隆盛を説明する必要はないと思いますが、
気になるのはなんで上野なの? ということです。
ググってみると下記などがヒットします。
・上野は彰義隊の戦跡であるから、西郷隆盛は当時朝廷側の指揮官だったので、
功績を顕彰する意味で。
・上野公園が帝室御用地だから、政府・皇室の肝煎りで西郷隆盛を顕彰する意味で。
・江戸城の無血開城から徳川家の後始末まで西郷隆盛が仕切ったことから、
徳川の管轄地であった上野山に建立したという説。
などなど・・・
敬天愛人フォーラム21 のサイトでは下記由来となっています。
西郷隆盛は西南の役で悲劇の人生を終えられましたが、明治22年明治天皇より
正三位を追贈された、故吉井友実同士と友ににはかり、西郷さんの偉大な功績を
銅像を建立してその由を後世に残すために立てられました。
明治31年除幕式には時の総理大臣、山県有朋、勝海舟、大山巌、東郷元帥等や
800名が参加して盛大に行われました。
横からのショット。 現在、周辺は工事中です。
上野駅交差点から見上げるとこんな状態です。
(真ん中に西郷像があるのですが、わかりますかね?)
西郷さんの銅像は日本で三番目に古い銅像だそうです(1898年)
ちなみに
二番目に古い銅像は靖国神社にある大村益次郎の銅像(1893年)
一番古い銅像は金沢兼六園にある日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の銅像(1880年)
だそうです。 いつか見てみたいですな。
敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来
西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加冶屋町に生まれた。
通称吉之助、南州はその号である。
若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、
これに関連して奄美大島に流されること2回、元治元年(1864年)許されて京都に上るや、
朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、
慶応3年(1867年)ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、
大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。
その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、
江戸を戦火から救ったことは余りにも有名である。
その後は故郷に退隠したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を
受けて状上京、参議に昇任し、廃藩置県その他の近代国家建設のための主動的役割を果した。
然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断乎反対して、大使派遣による
平和的修好を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、
内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷、
私学校を興して後進青年の育成に努めた。
明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦7カ月余、
ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。
そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、
正三位を追贈された。
この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を表わすべく
建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、
同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村高雲の作である。
西郷隆盛の偉大な功業は、その心情たる敬天愛人の至誠没我な精神に発した愛と所産であり、
日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに在るのである。
見応え度:★★★★☆



