太田道灌の墓 その①
大田道灌の墓を観てきました。
(【住所】神奈川県伊勢原市上粕屋1160)
大田道灌のことを墓の横にある説明書きをもとに簡単にまとめると
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太田道灌(1432-1486)は幼名を鶴千代といい、
成人してからは資長または持資といった。
また仏門に帰衣してからは、道灌と称した。
幼い頃から非常に利発で、神童といわれていた。
道灌はに二十五歳の時(1457)、武蔵野の原に、海に臨んで城と町をを築いた。
後に、この城は江戸城といい、徳川幕府三百年の居城となった。
晩年、道灌は京都の足利幕府と関東の公方とが、
互いに協力して政治を行なわなければ、平和は望めないと考え、力を尽くした。
しかし、主君の上杉定正は、己の権力の増大のみを求めていたため、
道灌は怒りにふれ、志半ばにして粕屋の上杉館で謀殺された。
時に五十四歳であった。
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ちなみに
1478年4月にこの間観にいった小机城 (神奈川県横浜市)を包囲して、攻め落としたそうです。
「太田家記」によると城の守りが堅固な上に、攻め手が小勢なため包囲は数十日に及んだが、
道灌は「小机は先ず手習いのはじめにて、いろはにほへとちりぢりになる」という戯れ歌を
つくって兵に歌わせ士気を鼓舞してこれを攻め落としたとか。
説明があります。
横の入口にお墓の案内石碑が目印として立っています。
実は勉強不足であまり太田道灌については詳しくはないのですが、
東京に住んでいるのに、この人を知らないのもなんですから、
もう少し勉強しようかと思います。
見応え度:★★★☆☆




