常に何かに集中していないと気が済まないのだろうか
父は仕事場を失い、自動車を失い、なにか集中できるものを探していた。
還暦のときにはゲートボールへの誘いも「なんで俺がこの歳でゲートボールなどしなくていけないのだ」と口には出さないが体よく断わっていた。当時のお客さんのひとりが誘ってくれた弓道には熱心に通っていたが、ある程度以上上達しないのと、後から入った者たちに抜かされていくのと体力的な限界を感じてやめていった。70過ぎまで十数年続いた。
体力的に難しくなるとたいていは書や俳句とか定番なのだろうが、いずれも父には似合わないのはわかっていた。
そんなときに夢中になったのが医者通いであった。数年前に前立腺がんを患い、手術を受けていらい通っていたのだが、ここへきてから膝の痛みを訴え始めてから整形外科へも通うようになっていた。当人としてはもちろん暇だから通っているわけではない、悪いところがあるから通うのだ。問題は先生の言葉を拡大解釈して受け取る癖があるようだ。ちょっとした痛みでも「なんだかおかしいんですよ、ここが時々痛むんですよ」しつこく言われれば先生の方も「それなら一度検査してみましょう」となるわけだ。80年も生きてきてるのだから検査すればどこかしこの数字になにかしらは出てくる。少し○○が弱っているようですな、と来たらしめたものだ。父は自分が正しかったのと病気が見つかったので大喜び(のようにしか見えない)だった。増えた診察項目と投薬に後で自分が苦しめられるとは思いもよらなかったのだろう。
前立腺がんの予後観察、貧血による血液内科、膝の痛みによる整形外科、認知症による心療内科(当人は不眠のための心療内科と考えてる)
三つの病院の4つの科を定期的に受診しなければならないうえに薬もそれぞれ、ランダムに胃の検査だ便秘だと地元の病院の内科にも通うし、歯医者にも行く。整理しきれない予約表と薬を目の前にして呆然としている父の後ろ姿は悲しげだった。
緊急性のない貧血やら便秘やら胃もたれやら行かなければいいのにと思うが、口にしただけで怒り出す。通院しなければ死ぬとでも思っているのか心の底はわからない。