まったく熱心に仏教をしていません^^;

といいますのも、次の不還果の壁が
在家にとってかなり大きいと感じるのと、

不還果に入った場合、意識を元に戻すまで
時間がかかると思う、からです。

普段の日々の生活のほうが忙しいので
日常生活に支障が出ると思いますのであえて止めています。

ただ日々のなかでヴィパッサナーは常にやっていますし
たま~にサマタもやっています。

いまのところ、二元論、幸福論、男女論
無の意味、空の意味、無我の意味、生死の理由、
宇宙の始まりと終わりはな~~~~んとな~くですが分かった気が、
というより自分のなかで納得できる解答が見つかってしまい。

哲学的にも、もう知りたいと思えることが
なくなってしまった感じで。

いまは
カッと怒ることはなくなってしまい
悲しみに暮れる、不安、孤独感というのは
ほぼ消えてしまいました^^;

そして悟る前より多くの人の相談にのって
智慧を出して、説法や解決の手助けをしてるくらいです。

私はいま、悟る前よりも、ちょっとだけ違う景色ですが、
みなさんと同じ地球で普通の日々を送っているだけです^^




異性といるとドキドキしたり、モヤモヤしたり
上手くコミュニケーションできなかったり。
ついケンカしてしまったり。

なぜでしょうか。




★男性は女性といると

自分と「女性」を「比較」してしまう。その結果
自分は「男性だ」と決めつけてしまう。そこにとらわれる。

さらに

自分を男性と認めてくれない女性と
自分を男性と認めてくれる女性がいるので

自分が自分だと自覚できなくなり

ありのままの自分がだしにくい。


★男性は男性といると

自分を相手の男性と「比較」しないので
自分を「男だ」とわざわざ「決め付けない」

相手の男性は自分を男性と認めてくれるので

自分が100%男と認められ。
男同士はありのままでいやすい。

★女性は男性といると

自分と男性を「比較」してしまう。その結果。
自分は「女性だ」と決めつけてしまい。そこにとらわれる。

さらに

自分を女性と認めてくれない男性と
自分を女性と認めてくれる男性がいるので

自分が自分だと自覚しにくくなり
ありのままの自分がだしにくい。

★女性は女性といると


自分を相手の女性と「比較」しない。
そのため自分を「女だ」とわざわざ確認しない。

そのため観念にとらわれない。


相手の女性は自分を女性と認めてくれるので

相手からも、自分からも、
自分が100%女と認められ。結果。
女同士はありのままでいやすい。

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ありのままで生きるには。

性別を無視してもいいんです。


まず自分が男らしく、女らしく
生きすぎないこと。つかれるだけです。

女子力?男子力?それにとらわれると
疲れるだけかもしれません。


男性が泣いたっていい。バンバン泣いていい。
女性が化粧しなくたっていい、豪快に笑って良い


そして、そのあと

相手の男性の女性らしいところを認めてあげること。
相手の女性の男性らしいところを認めてあげること。


全ての人類は、男女がこの世に存在する限り。

男性らしい部分、女性らしい部分を持ち合わせてると思います。

なぜか


きっと、それは我々の生命の根本的な

「助け合う」

という部分から来ているんだと
感じています。

男性は女性らしくないといけないときもある
女性は男性らしくないといけないときもある。


大事なのは

社会からあなたは男性だ女性だとか言われなくても

あなたはあなたなのです。



ちいさころ、

われわれは性別を重視してコミュニケーションしてたでしょうか?

ちいさいころ

性別も、色も、カタチも、年齢も、国籍も
一切とらわれずに全ての生物と「心だけで」会話できてたはずです。




7歳の少女へのインタビュー

インタビュアー「女の子らしく走るってどういうことだと思う?」


少女「力強く、元気に走ることだと思う!」




ありのままに生きること
それは美しいこと


化粧している女性は
輝いてるし
キレイだと思う。

(口紅を「つけるとき」の女性は
 とてもキレイだなって思う)


社会では見た目が大事
となってるのも知ってる。

「すっぴんは見せたくない!」
という子もいる。

外の世界へ行くとき、お化粧という
魔法をかけて女性たちは風を切って歩いて行く。

ただどこかで彼女たちは
(化粧しないといけないなんて
 窮屈な世界だなあ・・・
 毎日毎日。。
 ああ、すっぴんでも認めてもらえる
 世界だったらなあ・・・)

と感じてるのでは。

化粧をバッチリ決めた女性の笑顔が、たまに寂しく見える。

きっと、
女性たちがこどものとき
そうだったように

すっぴんの方が
たくさん笑えるんじゃないかな



私は不還果になっていないので
記述できませんが、いま思う
「こんな感じかなあ」
程度で。

ちなみにもしかしたらですが
「読むと執着や目的が発生するかもしれない」
ですので、

一応、現在一来果で不還果を目指していて
「なんとなく自分で分かった」という方はここでお戻りを


「悟ってもないし、ただの興味本位!」という方は下へゴー























あくまでもこうかもな~程度で書かせて頂きます。

繰り返しますが、執着せず、疑い、とらわれないでください。




【なる方法】
ヴィパッサナー瞑想をしての無我体験

だとは思いますが、恐らくこれが今までの無我体験とは違う気がします。

恐らく「私はいない」とすらも「考えることのできない」状態
なのではと。
つまり不還果に達したとき。
自分以外の他の何かから物理的に何かされない限り。
そうそう簡単に瞑想が解けないのでは?
とも。


まず、サマタ瞑想の禅定をマスターします。
恐らく色界レベルの禅定かなと思います。
無色界レベルでは思考できないので
恐らく色界レベルの四段くらいでしょうか。


その究極の集中状態のときに(集中といっていますが、力を込めてるわけではありません)
ヴィパッサナー瞑想に移行し
歴史、私、存在、煩悩、欲、思考、五感、言語、文法
感覚、自分の知識的記憶、自分の体感的記憶、ブッダ、ブッダの真理
を消していき、辿り着く場所

なのかなあと。


まあたんなる想像ですし
かるーい気持ちでまあ考えてください!

私自身は今すぐ不還果になろう!
という気持ちはサッパリありませんし^^;




在家の場合、これは結構大事な疑問かもしれません。


一応この悟ったを「預流果になった」と位置づけます。


大きく分けるとこの2つでしょうか

①悟った経験を生かし自分の人生を良い方向へ向かわす

②悟った経験を生かし自分の人生を良い方向へ向かわす
  さらに一来果など上をちょっと目指してみる



①の場合、悟るとやはり人生観が変わると思いますので
 何をしても世界の見方は変わると思いますし
 智慧は少なからず出るので、人を助ける方向に向かうかもしれません。


②の場合は「一来果になるためには」を読んで頂けると嬉しいです。


忘れないでほしいのが「悟った自分は凄いんだ!」
と他の人と自分は違う!とおごらないことです。^^;

これは悟り以外でもそうですが。

ブッダがいわく「人間は全て平等」です。

ですので、悟った人がエライわけでもありません。


せっかく悟ったのに・・・

「悟ったことに囚われて、その後の人生を不幸にするなら
 それこそ悲しいはなしです(´・ω・` )」


ブッダ、僧侶、在家信者、不還果、一来果、預流果、凡夫
全てが同じなんです。


そして全て美しいのです!


なので、悟ったあとの道のりは「自由」でいいとおもいます。

仏教の道はもういいや、となっても全く構わないと思います。
(じつはそのほうが次の段階に行けてしまうのですが)



悟ったのにこれしちゃダメかな
なんて考える必要はありません。

悟ったあとの世界を素直に楽しんでください!^^




なぜ我らの先生、ブッダを疑わなければいけないのか?

といいますのも


まず、仏教は仏典のみです。

となると、これの解釈が大事になってきます。

が、しかし


1 ブッダの言葉を
  「弟子が思い出してまとめた」ものです。
  
  ブッダが書いたものではありません。
 
  さらに2500年の長い年月で内容が変わってる
  可能性は、、、あるでしょう。


2 更にそれを日本語に変換されています
  微妙なニュアンスは変わっている可能性はあります。

  頭とは英語でHeadですが

  日本語の頭は脳天一帯を指します
  英語のHeadは頭部全体を指します
  こんな日常の言葉ですらニュアンスはわずかに違うのです


3 言葉の捉え方はヒトそれぞれです
  「愛」という言葉だけを見たとき
  ロマンチックなものだと「感じる」というヒトもいれば  
  ただの脳内のドーパミン現象の結果だと「感じる」ひともいます

  ブッダの真理の言葉でさえも
  ヒトそれぞれ捉え方が違います

  つまり我々がブッダの本当の意味で伝えたかった「真理のことば」や「瞑想法」を
  100%解釈できているか証明できないのです



これは言葉の持ってる弱点部分なのです。
日常生活でもこの言葉の弱点によりトラブルが絶えません。

言ってしまえば、私のこのブログでさえも
できるだけ簡単な言葉は使うように
心がけていますが

私の本来の意味であなたが理解してるかというと
そう言い切れなくなってしまうのです。



そのため仏典からくる

ブッダの言葉、

そしてブッタ自体にも神格化せず、執着しないように。


仏教はそもそも自分がホトケになっていく作業です。
自分をブッダになれるように心がけましょう!^^






私の場合ですが


・ ともかく学問的にブログにWikiにむさぼるように知識を入れていく
・ 仏教おもしろすぎる!
・ 頑張って、全身ヴィパッサナー瞑想をする
・ サマタ瞑想も頑張る
・ 一来果への情報を探す

・ 執着すると一来果になれないことが分かる
・ 仏教から離れて、煩悩の世界で生きる。
・ 意識を凡夫以下程度まで戻す(つまり仏教に興味なかったころの)

・ 普通の生活を、普通に楽しむ
・ 仏教なんてどうでもいいや
・ たまにヴィパッサナー

・ 悟ってしまった


という感じでした
2014年3月8日明朝



明け方まで友人とスカイプをして

「そろそろ寝ないと」

ブラインドから昇る太陽を見て

ああ、もう朝陽だ、とぼーっとみていた瞬間







とつぜん地球が静かになった







・・・?



そして



「ああ、このために生きてきたんだ」



(あれ?自分でも何言ってるんだろう・・・)



全てを肯定できる感覚。
あれ、なんでこんな穏やかなんだ。。。
そして何だか「死んでもいいや」という感情が。あれ・・・?



そして身体は脱力。。。


天使が見えたとか、後光が見えたとか
ブッダが降りてきたとか、そういう神秘体験的なものではなく
何かがカツーンと変わった感じ。

いったい自分の身に何が?



完全におかしくなってしまったのでしょうか?





その日以降、街を歩いていても

すべてのものがフワフワして、何もかもがボワボワしてました。



ともかく気力もなんもでませんし。なぜか、パワーが出ないのです。

社会生活が困難になりました。



「このままじゃダメだ」

と思い、似たような体験をした人をいないかと、グーグルで検索(笑



するとチラリホラリと見つかり

とことん二ヶ月間検証をした結果



「悟ってる」

という結論が。。。



熱心な仏教徒でもない。僧侶でもない私が・・・??
別に瞑想していたわけでもありません。

しかしいくら調べても

悟り以外の言葉が見当たらない。





その日まで、仏教は知ってはいましたが

「悟り」に関してはなんの知識もありませんでしたので

反動が凄かったです。



悟りについてある程度分かっていると

反動はそこまで来ないのではと思います。





時間が経てば普段の自分に戻りました^^







というわけで、私の場合ヴィパッサナー瞑想ではなく

「外の外因的なこと」により

悟ってしまいました。

(結構、偶然、外因的に悟る方も多いようです)



そして昔からあまり怒りっぽくなく、感情もそこまで起伏が強いほうでなく
八正道と五戒も日々のなかで気づかぬだけで実践していたのです、、


恐らく、友人と長く話し、頭をつかいきって

空っぽになったところに丁度

朝陽の美しさを「ありのままに」感じたため

悟ってしまったのでは・・・?と思います。


まさに人生を変えた日でした。。






これは凄い不思議な感じです

・ニコニコしてるほうがラク
・自分が自分じゃないと考えるほうがラク
・人に譲るほうがラク
・目をつぶっている方がラク
・感謝するほうがラク
・ピアノを弾くと映像?が見える
・耳鳴りが鳴ったら、たまに意識的に消せられるようになる
・考えるのもラク
・考えないのもラク
・悪口が言えなくなる
・自我を出すのが少々疲れる
・いつ自我が出たか敏感になる


もちろんこれがいつもってワケではないのですが
自我が相当
うすくなってきてる印象でしょうか


気づけば座禅瞑想会に出席
気づけばテーラワーダ協会のサイトにアクセス

気づけば「タイ」という単語に敏感に

仏会話集を仏教関連の本か!?と勘違い

そのトラップを抜けつつ、仏教関連の本を買っている

気づけば悟りに興味津々



気づけば定期的に瞑想している


そんな感じです笑