題名に♪が入ってないときはガチめな話なの←
命の重さって、平等じゃない
無論それは主観的なものだけど、客観的にもそう
隣人より家族
知人より恋人
そうでしょ?
それは、人それぞれの主観に基づく、或いは様々な人目線の客観に基づくボーダーで決められる
でも、本質的には、命の重さは同じ
それに対する、所謂付加価値(主観的或いは客観的価値)的なものが加算されることで、実質的には命の重さに差異が生まれる
同じ命の重さなら、知らない人より恋人を助けたい
同じ命の重さなら、隣人より家族を助けたい
命の重さは平等だと言うけれど、否その通りではあるけれど、
本質的にはそうであっても、実質的には違う。
そういう意味で僕は、命の重さは平等じゃないと言った
ニュースで訃報を聞いて、恋人を失ったのと同じくらい悲しんでいる人が何人いるだろうか
僕が言いたいのはそう言うことではない
確かに命の重さに実質的な差異はある
でも、
命の重さの、軽い人間は一人もいない。
相対的に「軽く見えている」だけで、その人の恋人から見ればあなたの方が命の重さの「軽く見える」人物なのだから
無差別殺人なんてない
相手のことを知っていようがいなかろうが、
相手の命の重さを「軽く見ている」点で同じであり、
それが相対的な評価である以上、"無差別"とは呼べないのではないだろうか
最近ではその言葉の重さが軽くなってしまった「死ぬ」という言葉だけど、
今皆の使っている「死ぬ」という言葉は、言うならば"新意"であって"真意"ではない
多義語というやつだ
普段使っているからといって、その言葉の示す行為が身近になったと思ったのなら、それは錯覚だ
人生には困難がつきもの。
それを越えられないこともある
でも、だからといって死ぬ必要はない
自分の命の重さは自分では決められない
本質的な重さは同じだから
実質的な重さは自分の周りの人が決めるから
もしも。
もしも、本当に選択肢として、自分の命の重さを捨てたくなったのなら。
少なくとも、これを読んでる僕の知り合いは、
捨てる前に僕の眼前に現れなさい
僕にとってのあなたの命の重さを語ろう
あなたが捨てようとしているあなたにとっての命の重さは、僕にとってのあなたの命の重さよりはるかに小さい
付加価値があるから
あなたという付加価値があるから
その付加価値の重さを知らずして命を捨てようなど、浅はかにも程がある
自分で気付かないのなら、他人に気付かせてもらおう、その重さ。
その"他人"に、僕はなりたい