健南方神社
長野県長野市戸隠豊岡に鎮座
健南方神社 由来(たてみなかたじんじゃ)
当社は草創の年代は定かでないが銅板古文書に依ると安和二年「九六九」十月二十日余吾将軍平維茂が勅命を奉じて荒倉山に棲む妖賊鬼女紅葉を退治に都より下向した時既に社があり余吾将軍に随行した多数の武士が軍旗を建てて境内で宿営したという。
治承元年「一一七七」旭将軍木曽義仲四天王隋一の家臣今井四郎兼平が当社に祈願して敵軍を阻止しその霊験著しかったので専ら産神様として崇敬祭祀したと伝えられている
当社は諏訪大社の分社と奉称されておりその故を以て嘉暦「一三二九」延文「一三五六」嘉永「一八五二」と諏訪大社の神用として御造営人夫を課られ出役したという
鎌倉時代の社地は百間四面「一万坪」あり大杉大楢等 幹回り三丈余り「約九メートル」の老木がうっそうと茂っていたと記されており これからしても古社であることが伺える
弘治三年「一五五七」七月本殿を改造したが慶長十七年「一六一二」五月本社の鎮座地は栃原村から戸隠領に加えられたので字今井に分社移奉された 明治二十年「一八八七」六月「健南方神社」と改称され村供進指定社となり同二十八年には内務省の古社寺取り調べで古社に編入された
大正十五年「一九二六」四月七日焚き火の不始末で被災し社殿社木等重要な文化財や御木が灰燼に帰した現在の社殿は昭和三年に氏子一同の協力で再建されたものである。(由来碑より)
神社入口
御柱と社殿
境内社