史跡龍岡城址

 

 本城は旧龍岡藩主松平乗謨がその居城として築いたもので、元治元年(一八六四年)三月着工、慶應三年(一八六七年)四月竣工した。
明治四年(一八七一年)龍岡藩の廃藩にともない廃城となり、建物も一部除いて撤去されたが、石垣や掘は、築城当時の状態をとどめている。
西洋式城郭の様式をとり入れた五つの角をもつ星型の城郭は、函館の五稜郭と同様であって、城郭史上特異な位置を占めているばかりでなく、幕末における海外文化の移入のあとを示すものとして歴史上価値のある遺跡である。
昭和九年(一九三四年)五月、国の史跡に指定された。
またこの場所は、龍岡城の北の入り口にあたり、敵の侵入を防御し、攻撃的機能も兼ね備えた鉤の手状の枡形として良好な状態で保存されており、貴重な遺構である。


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新海三社神社の鳥居  
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龍岡城五稜郭 

所在地 佐久市田口3000番地 指定 国指定史跡

 

信州に一万二千石、三河に四千石の封地を持つ三河奥殿藩の松平氏は、宝永以来百六十年間 三河に本拠を持ち、佐久には陣屋を置いて、領内二十二か村の統治をつづけてきた、11代乗謨になって、幕末激動の情勢に応じて信州に居館を移すことを計画し、元治元年(1864)三月着工、慶応三年(1867)竣工、地字名をとって龍岡城と称した。用地一万余坪は田野口村より、石材木材などは領内より奉納、総費用四万円余であった。藩主乗謨は学才識見ともすぐれ、幕末の陸軍奉行、老中格、陸軍総裁などの要職につき明治に入っては、佐野常民と共に、赤十字社の前身である博愛社を創設し、副社長、又、賞勲局総裁など歴任した。築城にあたっては、領堡式築城法を用い、いわゆる五稜郭が成立した。そしてこれより四年前完成した函館五稜郭址とともに、わが国城址の中においてただ二つの貴重な様式城郭である。廃藩後明治五年、城はとりこわしとなったが、さいわい濠と土塁、建物の一部大台所を残している。
注 松平乗謨、田口藩最後の藩主で明治初年大給恒(おぎゅうゆずる)と改姓名


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