音楽ボランティアSWINGの

歌手紙(老いぼれの戯言)

 


昭和15年~30年の記憶を暇にあかして


書き留めてみました!!

         


今日は午後から冷たい雨が降り続いています。


昭和時代中期30年頃までは季節感が


はっきりしていて、28日頃からはお餅突きが


始まって、お天気は良いが冷たい強い風を


伴い吹き荒れた中で蒸しあがったもち米が


冷めないうちにと懸命に突き上げました!!




そして、そしてお正月には労力の汗が滲んだ


お金を握り締め、白い鼻緒の高下駄と黒い


足袋を履き黒い学生服を着て友人達と梅田へ


繰り出しました。




時には雪が降り高下駄の歯に雪がたまって


下駄を脱ぎ地面に打ち付けてとり去ったりと


大変でした。




3日を過ぎると青年会あしの葉会では百人1首


大会が始まります、

                       私は母の読み上げをまねて


その大会では読みあげを引き受けていました。




約80人の会員が事務所の2階畳敷きの

広間に集い何組かに分かれトーナメントで


競い順位を


争いそれぞれに賞品が授与されました!!




「私たちの住環境を説明しますと!」


大阪の北部に昭和15年に建設された300戸の


警察官住宅で現在も現存していますが


姿を変えて団地となっています。


大阪の北部は方位学的に凶の地として


大阪市内からは忌み嫌われていたせいで


発展が遅れ周囲には田畑が広がっていました。




当時入居した皆さんはほとんどが


新米警察官で

結婚ほやほやでした、そうした事情で


昭和30年前後には青年が多くいました。


いわば特殊な住環境でした。




事務所は当時珍しかった電話が設置され唯一


警察本部からの連絡を伝達するところでした。


私は6歳で移転して来ましたので、


最年長組でした。




家の間取りは現在の3LDKで玄関ガラス張りの


両開きドアー5平米の土間があり上がりがまちを


上がると畳2畳の客待ちがあり、左は3畳の部屋


右は4畳半で押入れがその並びは床の間つきの


6畳、玄関正面井は度日を空けると板敷きの廊下


その左は約6畳のダイニングキッチン当時では


珍しいガスキッチンとかまど、水道は団地専用の


井戸から配水していました。




畳は昔の基準ですので180×90の畳でした、


広さがわかると思います、裏には8畳程度の庭


裏木戸が有り、小さな池を弟とつくり近くを流れる


川から小魚を取ってきて楽しんでいました。




入居してすぐに枚方の弾薬庫が爆発し退避した


記憶があります。大騒動で親父たちは総動員で


トラックに乗り現場へ直行でした、その光景は


今でもはっきりと覚えています。


当時はまだ支那事変の最中でしたのでスパイが


爆発させたのではとうわさが広がっていました。




と説明が長くなってしまいました。


もう、82歳になり記憶が失われないうちにと


記憶が蘇ったところから書き留めてみました。