眠れない夜、共感性羞恥心という言葉を思い出しました。
他人の恥ずかしい行為がまるで自分のもののように感じていたたまれなくなるというものです。
私はその言葉を有名にした番組を見ていなかったのですが、どうやら10パーセントほどそうした感覚を持つお仲間がいるらしいとのことで少し安心しました。
私は感情性が豊かだと人によく言われます。自分で言うのもどうかと思いますが、自覚もしています。
泣ける映画!と銘打たれた作品はできるだけ行きたくありません。必ず泣いてしまうから。
そして誰かの失敗が丁寧に描かれている作品、番組の視聴も無理です。見られないわけではありませんが、ストレスを感じます。例えば気合いを入れては空回りする主人公などとてもありがちなものですが、そのありがちも苦痛です。最後にその失敗をバネにハッピーエンドとなればそれはそれで感動しますが、また観たいとは思えません。

ただ、このように文化を享受するのに難があるというだけであれば、共感性羞恥はここまで私の印象に残るものではなかったでしょう。

問題は現実世界でのことです。
私は他人の恥じる姿を見ることが苦しくてたまりません。私ではない誰かが怒られたりするのを見るとその場から去りたくなります。幼い頃は姉が親に叱られているのを見るのも嫌でたまりませんでした。
そうして共感性羞恥心を抱えて生きてきた結果、私は無意識に他人の失敗を追及することができなくなりました。誰かの失敗が自分にしか影響を及ぼさない、あるいは自分がフォローできてしまう場合、私は笑ってその失敗を許してしまいます。それは優しさではありません。結局その人に恥をかかせて自分を苦しませないようにするためであって、その人のためではなかったのです。
私は共感性羞恥心という言葉を知って思いを巡らせているうちに、自分の辛さから逃れるために誰かの成長の芽を摘んでしまっていたことに気づいたのです。
共感性羞恥心というのは直接誰かに迷惑をかけるようなものではありません。むしろその人の感情性の豊かさにつながるものであると思います。
ですが私のように隠れた害が伴っている場合もあります。
取られ方によっては善にも悪にもなる症状です。完全に治すことはできないと思いますし、私自身治したいとも考えていません。ただ、その症状を盾に自分中心に生きてしまわぬよう気をつけていきたいと思います。