人生はフィクション。

 

 

人間は、現実と想像の世界を行き来しながら生きている。

 

 

人生に対し、おのおのの想い・希望や願望・夢を抱いて人は生きる。

 

 

人の生き方は珠玉混合で、

 

 

何かを達成したい人

毎日が楽しければいい人

全部やりたい人

 

 

など、人によって生き方も全然違う。

 

 

個人的な話で恐縮だが、私は全部やりたい人に属する。

夢に向かって歩いて行きたいが、毎日楽しく暮らしたい。相当な欲張りで、言い方を変えれば、傲慢と言われてもおかしくない。

 

 

ガマンは嫌いで、好きなことしかしたくない。

好きな人と過ごすのは好きだが、好きでない人と過ごすなら、一人のほうが100倍楽しい。

 

 

自分の好き

自分のやりたい

自分の快適

 

 

ばかりを追う、実は快楽主義。

偉そうなに古典を引用したり、宗教思想を引っ張り出してくるが、不要なガマンはしない。

 

 

でも、自分が原因でうまくいかない、失敗する、などについてはきちんと責任は取っているつもりで生きている。

 

 

人には極力迷惑はかけたくないし、このように書きたいことだけ書いているブログを不特定多数に自動表示されるSNSに上げるのは、適切ではないと思い。

 

 

ブログに綴っていて、よっぽどのことがない限りSNSとはリンク付けしない。

 

 

様々なことをしたいことが、一つのことの達成を阻んでいることもよく知っている。

 

 

かといって、一つのことに荷重がかけられないことも知っていて、数年すれば冷めてしまうことから、なかなか人は巻き込みきれない。

 

 

自分の組織を作るという夢や希望はあるが、正直、道半ばで情熱がなくなり、方向転換することも十分あり得るために二の足を踏むこともある。

 

 

こうやって人間の本質、人生の幸福などというテーマについてうっとおしく語っているが、これもいずれはピークを越えて、来年の今頃はなんのテーマを考えているかは見当がつかない。

 

 

これは、自分という生命体が、様々な刺激に対して常に反応性を変えていることの裏返しで、生き物としては極めて自然な動きを採っている。

諸行無常であり、同じものは一つとしてない。

 

 

人間の幸福は、自分という生命体が、自然の摂理に沿って生きれば生きるほど、得られるものだと信じてやまない。

 

 

これを科学的に証明するには、あと数百年かかるかもしれないが、世の中には哲学という学問があり、自分で考えたこと、自分で信じたこと、自分がピンときたことを表現する自由がある。

 

 

このため、現代の幸福哲学として、徒然なるままに書き残している。

 

 

現代社会では、何か一つの道を究め、人として清くただだしく生きることがよしとする風潮がまだまだ強い。

 

 

私のように、好きなことを数年周期で取り組みを変え、傍から見るとフラフラ生きていることは「確立した生き方」として語られることはあまりない。

 

 

だが、古代にさかのぼり老子、荘子などの思想までさかのぼると、同じような生き方を見つけることができる。

 

 

すると、私の生き方は老荘思想であり、欧米的な思想でいうと、ティム・フリークのワンネス思考に該当する。

 

 

極端な言い方をすると、「人生は壮大な暇つぶし」という生き方。

 

 

実はフラフラ生きることもれっきしとした生き方ということでそれこそ「確立した生き方」以上の太古から存在していた生き方ということに気付く。

 

 

もちろん、同じく中国の古典に孔子があり、老荘思想とは対照的な「自分を律した生き方」と表現される。

 

 

人生には様々な生き方があり、社会や地球に優しく生きれば、いずれの生き方も実はれっきとした人生道といってもいい。

 

 

つまり、自分がどう生きようと、臆することなく胸を張って生きていける。

 

 

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