さて、日本の幕末史を知る人なら『篤姫』もしくは『天璋院』という名を聞いた事があるはずだ。
彼女は薩摩藩主島津家の一族に生まれ、のち、時の藩主斉彬公の幼女となる。日本史上の諸大名の中でも人物、度量、手腕など、どれをとっても最大級の賞賛を捧げられる島津斉彬公。彼は当時の切迫した日本の情勢を鑑み、将軍継嗣において一橋慶喜を推挙。対する南紀派は徳川慶福を推す。
元の問題は十二代将軍徳川家慶の急死により、急遽十三代将軍となった徳川家定にあった。生来病弱にして知的・身体障害を持つ(大半の史学者はこの見方)家定にとって、1853年以来の対外情勢を乗り切れるものでは無かった。既にアジア諸国の大半は英・米・仏・露といった列強の植民地となり、政策の舵取りを失敗すれば日本も同様の憂き目に遭うのは必至。当時まだ三百諸侯が国内各地に割拠しているとはいえ、一国の政府は幕府という認識が一般。
将軍家定は短命に終わるかも知れず、次代の将軍候補を選定する事が目下最大の国事。そこで前述の一橋(徳川)慶喜と徳川慶福との継嗣問題が浮上した。世に言う一橋派vs南紀派の争いである。一橋派には英明・有能とされる諸侯、幕臣が多く、南紀派には保守派とされる諸侯、幕臣が多かった。
幼少より英明の誉れ高く、成人してなお一層英邁と評判の一橋慶喜を継嗣とするよう、将軍家定に働きかける。島津斉彬公は秘策を講じた。篤姫を近衛家(島津家と縁戚関係にあった公家)の幼女とし、そこから将軍家定の正室として江戸城大奥に輿入れさせる。妻女として陰に陽に家定に助言し、慶喜を継嗣にさせるよう働きかける。
夫婦生活もままならぬ家定正室となることは、そのまま国事の贄となることを意味する。通例ならば将軍が死んだ後、正室はひたすらその菩提を弔うことを強いられる。頬を朱に染めた可憐な乙女は、それでもなお、敬愛し、尊敬する藩主斉彬公の意図を汲み、悲壮の決意で政略婚を受け入れたのだ。
果たして二年後には家定が急逝。将軍継嗣は大老井伊直弼(後の日米修好通商条約締結を強行に進めた)を頭目とする南紀派が勝利する。落飾した篤姫は天璋院となった。
十四代将軍となった徳川慶福改め徳川家茂は公武合体策による皇女和宮を正室に迎えた。天璋院の行く末を案じた薩摩藩は彼女の帰国を幕府に願い出、幕府もこれを許可するかに見えた。しかし、当の彼女はこれを拒絶、徳川家に残る決意を披露した。何故か?
国家の災厄、婚家の困窮を見てこれを捨て置く能わず、己自身の為すべき事を考え、為すべきを為す。
幼き頃より島津の女、武家の女として教えられた生き様。彼女の心は既に私心を捨て、自分の立場から国事を考え、為すべき行動を決意していたのだ。
情勢は急転し、時代は尊王敬幕から勤皇倒幕へ。薩長は連合し、最後の将軍徳川慶喜は朝敵の汚名を着せられた。
幕府は消滅、大奥も解散。ここにおいて最悪な関係だった和宮と和解。徳川家の為、生家である倒幕の先鋒薩摩藩島津家に対し命懸けの周旋活動。彼女の行動は実を結び、徳川家は断絶を免れ、婚家最大の窮状を救った。
生涯、弱い立場の者を助け、慈しんだ。明治の世になってなお、婚家、徳川宗家の為に力を尽くした。
篤姫をヒロインとして捉えるのは問題もあるかと思う。何故なら彼女は人物としての大きさ、人徳人望において並々ならぬものがあるからだ。ヒロインと一口に言ってしまうと軽く聞こえるだろう。
日本史上に残る人物。それが篤姫・天璋院。