スポーツ界、音楽界、政治界などの界隈には、様々な「レジェンド」が存在する。レジェンドたちは、たくさんのレガシーと共に、ある日、その輝かしい物語に終わりを告げる。「レジェンド」の引退は、祇園精舎の鐘の声のように、諸行無常・盛者必衰の響きを与える。その度に、全てのものに終わりがあるという、無情な世の中の残酷な掟に従いながら私たちは生きていることを痛感する。アキレス、ヘラクレス、ペルセウスらですら、この掟を破ることはできなかったのだ。最強であっても、最高であっても、頂点に居座り続けることはできない。ではなぜ、人々は「レジェンド」というモータルな存在を作り出し、崇め続けるのだろうか。


2022年、テニスの「生きるレジェンド」ことロジャー・フェデラーが引退を表明した。歴代最多グランドスラム優勝記録、世界ランキング1位最長連続記録、歴代最多ツアー優勝記録などの輝かしい数字からもわかる通り、歴代最高の男子テニスプレーヤーの1人である。フェデラーの凄さは、記録だけにとどまらない。彼の美しいフォームは、ツアーの中でも随一であり、コート内外での紳士的な振る舞いは、多くのテニスファンの心を掴んできた。


そんなテニスのレジェンドも、2022年、輝かしいキャリアに終止符を打った。41歳だった。


フェデラーのキャリアは長かった。怪我から復帰した36歳の時、ナダルとの劇的な全豪オープン決勝を制した。最年長優勝記録だった。「Fedal」との愛称で親しまれる、テニスの2人のレジェンドの試合は、ロジャー・フェデラーという伝説の中でも、重要な1ページとなった。一度は引退も囁かれた中、常にトップに降臨し続ける彼は、まるで完全無敵のように見えた。


来たる2019年ウィンブルドン決勝。

「芝の帝王」とのあだ名もあるフェデラーは、ウィンブルドンの有名なセンターコートで、ノバク・ジョコビッチを相手に死闘を繰り広げた。

ジョコビッチも、フェデラー、ナダル、イギリスのアンディ・マレーらと共に、近年のテニス界を支配してきた、いわゆるBig 4の1人である。圧倒的なメンタルの強さと、全てのショットにおける完全性を持ち、セルビアの被爆撃地からテニス界の頂点まで登り詰めた、ヤバいやつだ。

フェデラーと同様、超がつくほどのベテラン選手だが、当時世界1位だったジョコビッチの方がコンディションは良かった。

フェデラーは、自身が持つグランドスラム最年長優勝記録と最多優勝記録を塗り替えるべく、すでに様々な伝説を作ったウィンブルドンに戻ってきた。準決勝のFedal対戦を制し、ジョコビッチとの決勝に駒を進めた。テニス界を超え、世界中が大興奮だ。

そして迎えた決勝戦の最終セット。テニスではサーブ側が圧倒的に有利で、相手のサーブをいかにブレークするかが鍵である。そんな中、芝の帝王フェデラーは、ジョコビッチに対し、試合の終盤、ブレークをした。サービングフォーザマッチ。自分のサーブでスコアが40-0となり、誰もが彼の優勝を想像した。この1点で、フェデラーはまだ塗り替えられていない記録を全て打ち壊すことができる。あと1点。これ以上栄光に近づけるだろうか。センターコートは、フェデラーに向かって、”One more point!”と連呼している。圧倒的なフェデラーサポーターのチャント。ジョコビッチにとっては絶体絶命のピンチ。しかしそこで諦めなかったのがジョコビッチだ。

彼は、この状況で、プレッシャーに屈して単純なミスをするのではなく、誰もが想像できなかったことをした。彼はニヤリと笑ったのだ。まるでフェデラーへのチャントが自分に向けたものであるかのように。まるで、絶体絶命な状況下でも、彼1人だけ、自分の勝利を確信していたかのように。そして彼はそのゲームをブレークし、その勢いでタイブレークを制し、ウィンブルドンを優勝する。

世界中が泣いた。


これがフェデラーの最後だったのだろうか。

最終ランキング3位という、美しい記録を持ちながら終えた2019シーズン。しかし、来たる2020シーズンは、コロナ禍でもあり、試合が無くなった。シーズン序盤に、年末までの離脱を発表、2021シーズンでも離脱は続き、とうとう2022年、レーバー杯でのナダルとのダブルスを最後に、テニスから引退した。2019年ウィンブルドン決勝。37歳であの舞台に立てるのは、ほぼ不可能であり、あの場にいること自体が素晴らしいことだ。しかし、優勝まではあと一歩及ばなかった。あと一歩、栄光に届かなかった。


圧倒的な強さを誇ったフェデラーも、栄光を手にしたまま競技から去ることはできなかった。ファンとしては、最後の試合や大会で優勝して欲しいと願う。しかし、「最後までやり切る」ことを大事とするプロのアスリートたちは、体が動く限り、競技が続けられる限り、戦い続ける。例え負け続けても、例え弱くなっても、戦い続ける。しかしそれはレジェンドがゆっくりと落ちぶれていく様子を見ると言うことである。負けると分かっていても応援することとなる。全盛期を知っているファンたちにとっては心苦しい。

しかし、強いまま引退するのも悲しいというジレンマがある。まだ戦えたのではないか、と思ってしまうからだ。

2021年、女子テニスの世界ランキング1位だったアシュリー・バーティ選手が引退を発表した。バーティのキャリアの最盛期だったため、少し惜しい気がした。

落ちぶれてから引退しても悲しい。だからと言って強いまま引退すると寂しい。人間は都合のいい、美しいストーリーを求める。たとえそれが他人の人生でも。


ここで本題に戻る。

なぜ私たちは、レジェンドを作り出し、応援するのか。


私は、これには明確な理由はないと考える。集団心理学を研究したら何かしらの答えが出るかもしれない。しかし、レジェンドが崇拝されるのは、単なる「すごい」という感情からだと考える。人間は、そこまで深いことを考えず、ただ単に「すごい」と思ったものを追求し続ける。そして、追求しているうちに、「すごさ」を文章化し、より深めることができるのである。最初は半野生的で、直感的な感情でも、いずれ極められ、人間の高等な営みを可能にしているのである。「これはなんだろう?面白い!すごい!」その知的好奇心が、私たちを学問や研究へと駆り立てたのである。


フェデラーのプレーを研究しているスポーツジャーナリストはたくさんいる。しかし、彼らも、当時ウィンブルドンの雰囲気に飲み込まれてフェデラーを応援していたファンも、根底には同じ感情を持ちながらあの決勝を見て泣いたのだ。「フェデラーというレジェンドはすごい。勝ってほしい。頑張ってほしい。」程度や理由がどうであれ、フェデラーファンを名乗る人たちは、みんな同じことを思っていたのだ。


みんなから愛される、それがレジェンドの凄さである。単なる数字や、強さ、上手さだけがレジェンドを作るわけではない。人々から熱狂的に愛される、いわゆるiconであるのがレジェンドだ。フェデラーの凄さはそのプレーだけではない。しかし、フェデラーのプレーが圧倒的すぎて、まるでフェデラーの凄さはそこだけのようにも感じてしまう。しかしそんなことはない。もし彼に強靭なメンタルがなかったら、41歳になるまでにテニスを辞めていただろう。彼のプレーのエレガンスは、シュテファン・エドベリコーチの影響があるとも考えられるが、生まれ持ったものでもある。フェデラーだけではない。レジェンドとしてその界隈のトップに居続ける人たちは、全員、卓越した技術を持っている。しかし、それだけではなく、醸し出るスター性や、プライベートなどもレジェンド形成に重大な役割を果たすのだ。


つまり、レジェンドというのは、一つの要素で作られるわけではないのだ。本人の凄さだけではなく、ファンが感覚的にレジェンドに惹かれることも多い。人間には理性があるとは言え、所詮は動物だ。ありのままの欲望に従い、日々を生きている。理性によって制される必要のない本能は、解放されやすい。それが人々がレジェンドに惹かれ続ける理由である。終わりが来ると分かっていても、輝くレジェンドの姿から目を背けることはできないのだ。なぜなら、感覚で好きだから、そして、その期待に沿うような活躍をレジェンドたちがするからである。


レジェンドを作り、崇拝する。終わりの時には悲しいが、それが界隈をより充実化させる。2022年、様々な世代交代が起きた。2010年代に様々なレジェンドが最盛期を迎えたとすると、ちょうどその物語の終盤に差し掛かってきているわけである。メッシとロナウドにとっての最後のワールドカップがあったのも2022年だ。これからも悲しいお別れが多いと思うが、次の世代が出てくるのは楽しみだ。メッシやフェデラーのようなレジェンドがこれからも出てくるのか不安である。しかし、再度言うが、世の中は諸行無常・盛者必衰なのだ。

全てのものには終わりがある。

地球が回り続ける限り、永遠に続く掟なのだ。

失われていくものに最大限の敬意を払いつつ、新しく出てくるつぼみたちに希望を寄せていく。

諸行無常・盛者必衰は、悲しいことではない。新しい時代の幕開けを意味している。テニスでは、2022年の全米オープンを制した、若干19歳のカルロス・アルカラス選手への期待が高まる。サッカーでは、ハーランドやムバッペの活躍が目ざましい。メッシの後継者はなかなか現れないが、マラドーナの後継者にメッシがいたように、70年ほどの長い時間の後には、時代を作ってくれる天才がまた現れてくると考えられる。

一つのレジェンド、伝説の終わりは、新たなストーリーの始まりがある。レジェンドの終わりに悲しむだけでなく、次世代のスターたちに目を向けていきたい。



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