前略、
お元気ですか。
私は幸運にもいまだ死にそうな病気、怪我もなく刺激の多い幸せな日々を過ごしています。
東南アジア、中国、南アジアと旅してきて、
私は今アジアの締めくくりの国としてインドにいます。
シッキムから旅行に来ていたあるインド人が言っていました。
インドにはインド人の数より多くの神様と、16以上ものメインの新聞、
200㎞毎に新たな言語と人種が存在していると。
方言ではなく言語がすでに違うらしくヒンディー語も南に行けば通じなくなる、そんな多種多様な国です。
そんな国に身を置いているとたまに自分が夢の中にいるんじゃないかと錯覚するような光景ばかりです。
朝目が覚め、宿を出て人が二人並んで歩くと道が塞がるほどのメイン路地を歩いていると、
牛がさも当たり前のように横たわっています。
体の皮の剥げたノラ犬はもちろんのこと、場所によってはヤギすらわがもの顔でいます。
ブッタガヤではこれに野豚、ニワトリというコンビネーションさえ目にすることがありました。
牛はシヴァ神の乗り物で神聖な生き物らしいのですが、
邪魔だといって棒で思いっきり叩いて邪険に扱うインド人を見るとなぜか笑えてしまいます。
地図に載っているとは思えないほどの小さなバラナシの路地を歩いていると、
200%の確立でインド人に声を掛けられます。
「ドコイク?」「ナニホシイ?」「ジャパニー!」「マネーチェンジ」「マリファナ・ハシシ」「ナマハゲ」「メチャヤスイ」
すべて一方的です。
「バカ」っていうと「ナンデ?」って聞き返してきます。
インド人に道を聞いてほとんどの人は答えてくれます。
だけど、全員が合ってるとは限りません。
「わからない」と「ごめんなさい」はなかなか言ってくれません。
なので、例えば道を聞くとき、いろんな人に同じ質問をしなければなりません。
そして打ち出された確率論を頼りに目的地に行くのです。
社会人として当たり前の"時間厳守"は、この国ではある意味ミッションです。
とりあえず敏感で神経質なやりとりはここではほとんど出会えません。
日本で生まれ育った私にとっては、
喜怒哀楽を思う存分発揮できるこの環境に居心地の良さを感じる事もありますが、
思い通りにいかないことがあまりに多すぎます。
予約したはずなのにないとか、オーダーしたはずなのに忘れられていたとか。
実家が商店ということもあってどうしてもインド人の"サービス"に目がいってしまいます。
ある日、メシ屋に行った時のことです。
そこにいた友達がすでにパンケーキオーダーして1時間待っていました。
すると店員が1時間経過して、オーダーの確認に来たのです。
そうです。忘れていたのです。
さらにその30分後、ついに登場したのはペラペラのパンケーキ。
こともあろうに定員がテーブルに置こうとした直前に皿に乗っていたフォークがバランスを崩し、
お客様の目の前で床に「チャリーン」と音を立てて落ちました。
すると店員はその落ちたフォークをそのまま皿にまた乗せ「はいどうーぞ」ってな具合です。
日本だとどうでしょうか? 散々待たせたあげくこれは激怒必須ですよね?
しかし一番驚いたのは、その場にいた人たち誰もそのことについて、激しいツッコミを見せなかった事です。
"郷に入っては郷に従え"ではないですが、こんなものはまだまだ序の口。
そんな精神状態の旅人達がたくましく感じる瞬間でした。
ちなみに商店で何か買うとローカルなお店に行けば、手が届く距離なのに商品をわざわざ投げて渡してきます。
さらにお釣りは投げて返すものらしいです。
もちろんまともにお釣りが戻ってこないこともあるので、自分で確認しなければなりません。
明朗会計なんてのは夢のような話なので、何度もボられて、適正価格を自分なりに把握していくしかありません。
どこまでなら許せるというボーダーを自分なりに作っていくのです。
買い物一つとっても自己責任なのです。
もし、明らかにボったくってると気づいて強く批判しても、売り手のおっさんは「二度くんな」といわんばかりに
手で追い払って、手にしてた商品を荒っぽく奪い返してきます。
ベジータよりも高いインド人のプライドにキズをつける時は、それなりの摩擦を覚悟しなければなりません。
主張がなければ、すべて相手の思うがままなのです。
日本ではどこか騙すほうが悪いという感覚があるけれども、インドというか世界では騙される方が悪いのです。
いかに自分が今まで治安のいい国であぐらをかいていたか思い知らされます。
どんなサービス業もそうです。
買い手より売り手の方が立場は圧倒的に上です。
電車のチケット売り場なんてその最たるもので、カウンターの機嫌を損ねるとお求めの席になんてつけません。
お客さんが丁寧にお願いして、「しょうがねーなー」みたいにちょっとめんどくさそうに発見する係員。
日本とは間逆の絵になります。
お客様は神様‥‥ここではそれは湯水のごとくお金を使ってくれる人にだけ当てはまる言葉のようです。
本来、与える側・与えられる側、支払われる側・支払う側、私の感覚ではどちらも上ではないように感じます。
日本は極端なサービス過剰で時に人間対人間とは思えないやり取りにも感じることあり、
「金払ってるんだから」という一点に焦点が当てられすぎている気がします。
どこでバランスが崩れてしまったのでしょう?
バブルがあって生活に余裕があるときには浮き彫りにならなかった問題が、
不景気となって都合の悪い時代になって明るみになってしまったのなら、
サムライ精神と呼ばれた過去の強くたくましい日本文化はどこかにいってしまったという事になるでしょう。
裏表があるようで裏表が感じられない、この国のあまりにわかり易くわかりづらいサービスに対する行いは
単純にうまく事が運んだとき一種の安堵感をさえあります。
非常に疲れます。
だけど自分のいた環境を客観的に見る良い機会です。
特にバラナシはヒンドゥーの聖地だけあって、日本との違いを感じるには最高の場所です。
ガンジス川の近くでは、満面の笑みで物乞いをしているじいちゃん、ばあちゃんがいます。
彼らはバラナシで死ぬために、はるばる遠いところから、人によっては歩いてきた人もいるそうです。
シワシワのじいちゃん、ばあちゃんは物乞いで集めたお金を
自分が死んだときに使われる薪代にあてるそうです。
手をさし出してくるその表情を見てると、なんと素敵な笑顔をしているのでしょう。
ここにたどり着けてここで死ねる事にまるで喜んでいるようです。
日本とは比べ物にならない差別の中で生きてきた人たちは、
死が訪れる現実に悲観的ではなく自然の摂理として受け入れているのでしょう。
ガンジス川では、沐浴をしている隣で死体が24時間とめどなく焼かれ、さらにその隣では洗濯屋が
川で洗濯をしています。干した洗濯物には灰がモロに降りかかっているのですが気にする人は誰一人いません。
死ぬのはなぜ恐ろしく受け入れがたいのでしょう。
今まであった人との永遠の別れからくる寂しさか、死後の世界が誰にもわからない世界だからか、
思いついたことがあるならそれがすべて、自分にとっての死への恐怖であり真実な気がします。
ただバラナシにいて、ただ死を待つ老人の表情を見ていると、
ヒンドゥーの持つ力がどれだけ死への不安をかき消しているか感じることができます。
宗教観のない国の人と、強烈な信仰をしている人の差は
死への理解と受け入れる気持ちの強さに現れていると思います。
つまりヒンドゥーが"拠り所"で未来。
不確かな死後の世界には、人間の何かではなく"神"を拠り所にしているのでしょう。
そんなインドの神様は多種多様で一人一人ストーリーがあるのがとても印象的です。
神様だからって模範的な神ばかりではなく、悪人を殺して間違って旦那を踏み潰してしまっている神様がいたり、
アニメのキャラクターのようなストーリーをそれぞれ持っているのです。
時にはアイドルのような扱いを受けている神様を見ていると、ヒンドゥーがこの国を維持していると強く感じます。
このように何もかもが逆転しているような文化なのでカルチャーショックはもちろんすごいです。
しかし不思議なことに、あまりそれが自然で当たり前に振舞われ時間が過ぎていくので、
空間に違和感のようなものはあまり感じられません。
なによりここで過ごす時間の感覚は特別です。
1分1秒を意識することなどなく、
太陽がのぼって明るいか、気温はいつぐらいにあがるのか
雲を見て雨が振りそうか等を考えて、より自然とともに生きている気がします。
日本で働いている時とはえらい違いです。
インドで世界の広さと深さを感じ、自分の育った環境がどんな特殊な世界だったのか、
どんな風にこの命を燃やしていこうか、柄にもなくそんなことをふと考えたりもしています。
騙されたと思ったら、親切にしてもらい、怒った次の瞬間笑いかけてくれる人がいたり。
脳内がシェイクされる毎日で、感情的になる分、感性も研ぎ澄まされていくようです。
生きていることが永遠ではないからこそ、人と繋がっている時間がとても大切に思えます。
旅のリスクと刺激の中でにいるのが楽しくて仕方ありません。
そして一人旅をして、いかに今までいろんな人に守られて生きてきたか身に沁みています。
幸い、子供の頃から人一倍愛情を受けて育ったおかげでどこにいても
ホームシックや突発的な不安に襲われることはありません。
自分の恵まれた環境に感謝しながら、新たな刺激の中に飛び込んでいきたいと思います。
みなさんの生活の中でも気づきや発見があり、それが前向きな思考に変換されることを祈って。