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観松院弥勒菩薩

 この弥勒像は6世紀に百済かあるいは遼東の斉で製作された弥勒像です。

時代背景は百済武寧王の時代と思われます。

彼は島王とも言われ佐賀の島で30歳になるまで過ごしています。

25代百済王である武寧王は諱を「加須年の事である。日本書紀では「502斯摩王」といった。彼は佐賀の加唐島で生まれている。

(かす)()(きし)蓋鹵21、第

(がいろ)(おう)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。」となっている。

 

538年の伝来について、元興寺縁起並流記(ならびにるき)資財帳(しざいちょう)724年)では

「敷嶋の宮の御世の(つちのえ)(うま)12月に渡り来る。百済の国主明王、始めて仏像経教幷に僧等を渡し奉る。勅して蘇我稲目宿禰の大臣に授けて興隆せしむ」とあり同じ時期に太子像ならびに灌佛(かんぶつ)の器一具および佛の起こりしを説く書卷一(はこ)を度して言いしく、「當(まさ)に聞く、『佛法既にこの世の間に無上の法なり、その國また行い修むべし」と。 時に天皇受けたまいて、諸臣等に告げたまいしく、「この他國(あたしくに)(あたしくに)より送り度りし物、用うべきや用いざるや。善く計りて白(もう)すべし」と告げたまいき。 

我等が國は天社國社(あまつやしろ・くにつやしろ)一百八神(ももあまりやはしらのかみ)一所に(うやまい)奉る。我等は國神(くにつかみ)の御心を恐れるが故に、他國の神は(うやまい)い拝(おろが)むべからず」と白しき。 ただ蘇我大臣稻目宿禰、獨り(まうさ)さく、「他國に貴き物と爲すは、我等が國もまた貴しと爲すべきなり」と(まう)しき。稲目は向原の後宮に太子像を奉り、うやまい始めた。

 

此処で私が着目したのは蘇我稲目が欽明天皇から預かったのは太子像と灌佛(かんぶつ)の器一具と佛の起こりを説く書卷一(はこ)3点であるという事である。太子像とは出家前の釈迦の姿であって、明らかに弥勒菩薩半跏思惟像なのである。これを612年の上宮法皇は太子像と言っている。釈迦像ではないのである。日本書紀では釈迦仏金銅像一躰、幡蓋若干、経論若干となっている。法皇帝説では仏像、経教、僧等となる