心は流雲のごとくのブログ

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大蔵館 - 保元の乱前夜の代理戦争

久寿2年(1155)7月23日、院政を敷いていた鳥羽法皇が崩御する。鳥羽を後ろ盾に権力を伸ばしてきた信西(藤原通憲)と、鳥羽に抑えられていた崇徳上皇・藤原頼長らの対立が一気に表面化する。翌年に保元の乱が勃発する直接の契機である。

その鳥羽法皇崩御のわずか24日後、東国ではもう一つの政権交代が血で決着していた。

8月16日、武蔵国比企郡大蔵館。

源義朝の嫡男・義平が、叔父・源義賢と、その義父・秩父重隆を襲撃、討ち取った。大蔵合戦である。

都の政局と無関係に見えるこの叔父甥の殺し合いは、実は同じ構造を持っていた。

当時、武蔵守は藤原信頼であった。1150年から1157年まで知行国主として武蔵を支配している。信頼は異母兄・基成を陸奥守・鎮守府将軍として奥州に送り、奥州藤原氏と姻戚を結び、馬と武具の供給源である陸奥を押さえつつ、自らの後任に弟・信説を武蔵守に据えることで、坂東支配の要である武蔵国衙を掌握しようとしていた。

義賢・重隆は、武蔵比企郡を核に上野から隣国にまで従えるほどに成長した在地自立勢力だった。相模から北上し武蔵武士を糾合しようとする義朝・義平にとっては、倒さねばならない最大の障壁だった。

だからこそ、義朝は在京したまま、留守の鎌倉を守る13歳の嫡男・義平に討たせた。信頼の了承があれば、それは私闘ではなく「国衙の敵を討つ公戦」になる。

保元の乱直前に発生した大蔵合戦において源義朝が罪を問われずに兵を起こせたのも、当時の武蔵国の知行国主であった信頼の了承を得たからとみられている

こうして見ると、大蔵合戦は保元の乱の前哨戦だったことがわかる。

都では鳥羽の死後、信西と信頼という「武士の力を政権の核にしようとする新興貴族」が急速に接近する。信頼が武蔵を押さえ、義朝が武蔵武士を束ねる。この信頼の家人・義朝という構図が、保元では後白河天皇方の中核的軍事力となる。

大蔵館で義平の軍に基地を提供し、姻戚であるはずの重隆を見捨ててまで義平についた小代氏の選択も、単なる源氏への忠誠ではない。

重弘の嫡男重能と重綱の後妻は重隆の家督相続に不満を持ち、河内源氏の源義朝・義平親子と結んで大蔵合戦で重隆を討っている。

この後妻は義平の乳母でもある。

当時の「館を囲む」戦いは、義平の鎌倉からの本隊が主力で、小代・重能らは案内と兵站、そして館の周囲の封鎖を担当したと見る。

この運命的な合戦に、小代氏は遠く鎌倉から北上してきた義平のために、軍事基地を提供して、源氏へ忠節を尽した。小代氏は武蔵七党の中でも児玉党の支族で、当時はまだ野原荘全体の地頭になる前の在地小領主でしかなかった。

12世紀後半は「一人ひとりの在地武士を順次に支配下に組み入れ、中小武士団を統合してゆく」時代。その統合の最終局面では、兄弟・叔父・甥の血縁は何の歯止めにもならなかった。

武蔵支配の完成がなければ保元に勝てなかった

久寿2年8月の大蔵合戦で義賢・重隆を討ったことで、義朝は武蔵一国をほぼ手中にした。重隆の養君だった義賢を除いたことで、秩父一族も児玉党も義朝方と義賢方に分裂していたが、大蔵館合戦の後、その大半が義朝に付く。

この武蔵支配の完成がなければ、翌年1156年の保元の乱で、義朝は後白河方の中核となる軍事力を提供できなかった。

保元で後白河方が勝った結果、義朝は左馬頭・下野守として関東での地位を固める。敗れた崇徳・頼長方の所領が没収され、その多くが武蔵を含む関東にあった。それを管理する権限が義朝=信頼ラインに入る。

平治で義朝が滅んでも、その時に義朝の与力として組織された武蔵・相模の武士団の繋がり、特に大蔵周辺の比企・秩父・小代らの地縁は消えない。25年後に頼朝が挙兵した時、真っ先に駆けつけたのがこの武士団であった。

同じ年の京 - 二つの女院の代理戦争

この同じ年の京の夏は、鳥羽法皇を頂点に二つの勢力に割れていた。

待賢門院派:崇徳上皇、皇子・重仁親王を要に、文官の棟梁は摂関家の天才・藤原頼長、武士は源為義・平忠正

美福門院派:雅仁親王(後の後白河天皇)、その子・守仁親王(後の中継ぎとして立てられた後の二条天皇)を推す。文官の棟梁は関白・藤原忠通、実務官僚は信西、武力背景は平清盛・源義朝

※近衛天皇はこの直前、1155年7月22日に崩御しており、この時点ではすでにいない

鳥羽がこのバランスを保っていたが、7月23日に崩御すると均衡は一気に崩れた。

義朝が武蔵一国を制圧した大蔵合戦は8月16日。鳥羽死去の24日後である。つまり、都で美福門院派が最も武力を必要としていた瞬間に、義朝は「信頼の了承を得た」という大義名分で武蔵を手に入れ、美福門院派に軍隊を提供できる状態になった。

武蔵守・藤原信頼が大蔵合戦を私闘として処罰しなかったのは、この瞬間だったからだろう。承認したのだ。

大蔵合戦は一地方の相続争いではなく、都における待賢門院対美福門院の次期天皇を巡る抗争の代理戦争だった。