この曲に関して、今さら何も言うことなんて無さそうなもんですね・・・ただ、バックハウスが「 テンポ・ルバートや誇張したダイナミックはセンチメンタルで耐えられなくなる」と言った割には情感を湛えた第一楽章には、思わずニヤリとしてしまいます。ワルトシュタインにしてもそうですが、中期の人気曲ともなると、バックハウスといえど気合いが入ってしまうものなのでしょうか?

とはいえ、個人的にはフリードリヒ・グルダの60年代の録音が好みです。
バックハウスの演奏が、一つ一つの音の輪郭が明確なのに対し、グルダの演奏はまったくの正反対・・・第一楽章を輪郭も朧げな弱音から始まって、情感いっぱいに見事な造形を紡ぎだしていきます。

それだけではありません。60年代のグルダは、決してベートーヴェンを重々しく弾こうとはしません。この14番においても、第三楽章に入った途端、茫洋と広がった水面に小波が次々と広がっていくように、軽くて正確なリズムがときに強く、ときに弱く疾風の如く駆け回るのです。そうしておいて、まるで鞭の一振りのような強い打鍵でもって陰影豊かに描いていきます。これこそが、グルダの演奏を表す際に頻繁に引用されるところの「疾走」です。吉田秀和氏が名付け親だったと記憶しますが、グルダの演奏が
決して猪突猛進ではなく、隅々までコントロールされているという意味合いを残しておきたかったのでしょう。

また一方で、グルダの音が「軽すぎる」という批判を生んでいることも事実です。「軽いのではない」と言い張る方もおられますが、これは誤解ではなく「軽い」でしょう。しかし、それがどうだというのでしょう?
何も「太い音や、タメを作って、どっしりとした造形」ばかりがベートーヴェンの演奏ではないでしょうし、「ジャーン」と見栄を切らず「ジャン」と小さくまとめることのどこがいけないんでしょう。単なる好き嫌いのレベルであって、素人が批判するべきものではありませんよね。

このあたりのグルダ氏の思惑は今となっては推し量ることしかできないのですが、氏のベートーヴェン初期ピアノソナタを聴いていると徐々に、「氏は心底、聴いている人を楽しませたかったのではないか」という気になってきます。それは、コンサート会場で耳を傾けている人より、むしろ、小じんまりとしたサロンでこそ活かされる演奏なのかもしれません。決して見栄を張るような演奏ではなく、小さな酒場でジャズが演奏されるように、しかし、聴いている人に心から音楽を楽しんでもらう。
グルダはベートーヴェンの演奏を、作曲者の意図や積年の呪縛から解き放ち、本来、ピアノ演奏が生まれた場に戻そうとしたのかも知れない・・・などと、気ままな思索に入りながら今日も楽しんでいます。