銀だらめんたいごはん

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このブログはあくまで個人的感想と忘備録的なものであって、既存作品に暴言吐いたりしています。気に入らない人は見ないでね。

また、他の人の考えも知りたいので、別意見等、コメントいただけたらうれしいです。


4・百鬼丸〜人になろうとするもの


どろろがイマイチメジャーになりきれないのは、百鬼丸のせいである。

百鬼丸は不具者であり親に捨てられ、妖怪を呼び寄せと、散々差別を受けている側の人間だから、綺麗事だけで物事誤魔化してる世の中には相容れないのだ。

実際、不具者を扱い、さらには差別的な発言が飛び交ってた原作版のセリフは現代ではほぼ改変されているし、とてもじゃないがアニメ化は65年の旧アニメが限界で、2018年に新作が出た時はちょっと驚いたが、2000年代の映画や小説、ゲームと同じでかなりオブラートに、というかうやむやに隠されている。 

倫理的な問題で、現代では難しいものの、どろろという物語は、百鬼丸が被差別民でなければ成り立たない。

どろろの根本は、「ヒト扱いされていないものが人間に回帰する物語」だからである。


手塚はどろろの主人公はどろろであると明言しているが、物語は百鬼丸を中心に動き、冒頭からして登場するのは百鬼丸である。

百鬼丸とは何かについて考えてみたい。

百鬼丸とは、富樫氏に使える父親・醍醐景光の野望の為、魔神の生贄となり体の48箇所を奪われて生まれ、妖怪を倒す旅を続けている少年である。

妖怪を倒す事で、身体の一部を取り戻すことが出来るのだが、その生まれからか、妖怪を引き寄せてしまい、並の人と共に暮らすことが出来ないため、己が幸せに生きれる場所を探すといった、漠然とした目標があるのみで、妖怪を倒す事以外は、まるで執着を持たない。

辛く悲しい思い出があるためでもあるのだが。


百鬼丸を語る上で、一番のポイントになるのはやはり48体の魔物と奪われた身体だろう。

この48と言う数であるが、実際には一つ足して49、49日として知られる死者を送る法要に由来するのではないだろうか?

仏教では死者は49日かけて冥土を歩き、悟りを開き、成仏されると言われている。

百鬼丸の奪われた48の身体は、ただ身体の一部と

言うのみでなく、人の持つ煩悩そのものでもあるのだ。

身体の48箇所を持たずとも百鬼丸は超能力とも神通力とも取れる力を発揮し、一般人のように生きれるのだが、身体を取り戻すとその力は弱まり、肉体故の弱点にもなる。目を取り戻したら光に眩むようになるのだ。

力故に妖怪を呼び寄せてしまい、力故に妖怪を見つけ、倒せるのだが、人に戻るにつれて今度は妖怪ではなく、肉体故の欠点や煩悩に悩まされてゆく。

百鬼丸が成仏に近い状態から、煩悩を抱える人間へと回帰する事も、私はどろろを仏教のアンチテーゼとしている理由の一つである。


そして、百鬼丸は48箇所の身体を取り戻しても、決して成仏できないし、幸せにもなれない。

一個の人間に過ぎなくなる彼は、最後の妖怪を捉える事が出来なくなるからである。

49番目の取り戻すべきものが、手に入らないのだ。


その鍵を握っているのがどろろである。






これはあくまで個人的な感想録、解説です。既存作品に対して暴言はいたりもしてます。気に食わない人はみないでね。

見る人はそういうもんだと理解の上で読んでね。後、異論反論あったら是非どうぞ。

 

3・物語の設定・神仏~信仰と救い

 その2にて、時代背景や、一向一揆の組織化(宗教による農民反乱の政治利用)を、「仏教のアンチテーゼ」として捉え、解説したが、より深く物語に宗教を否定的にとらえている部分を書き出してみよう。

 

 一番大きなものとしては白面不動がそうだろう。祀られている不動尊が、実は修行者の顔を奪い取る妖怪だった。というのは前述の一向一揆の流れにも似た、信仰が救いにつながらない物語の一面と言えるだろう。

 神仏の加護がはっきりと書かれているものと言えば序盤の妖刀似蛭だろうか?どろろが取りつかれたあと、人に切りかかるたびに、守り札の効力によって阻まれている。だが、似蛭を倒しえたのは百鬼丸であり、持ち主であった縫乃介は命を落としてしまう。

 より哀れなのは四毛入道だろうか?近隣の村を守るために命を投げ出した和尚が、妖怪として人を食らうのにためらいのない存在へと化してしまっている。

 もっとも、残酷と言えるのはどろろの母、お自夜にもたらされた奇跡だろう。

 火袋が残した遺産をどろろに引き継がせることを願ったお自夜のもとに、一刀の剣が降ってくる。お自夜はそれを神仏の助けと、どろろの背中に入れ墨を施すのだが、結果から言えば金はうつされた後であり、どろろの背中に彫られた入れ墨は全くの無駄になってしまう。

 妖怪が存在するように、神仏も存在し、加護や奇跡を施しているのに、決して良い結果をもたらしはしないのだ。

 これは百鬼丸の妖怪退治に触発され、自力救済・自己防衛に目覚めていく農民たちもそうであり、あっさりと手のひらを返してくる。

 

 

これはあくまで個人的な感想録、解説です。既存作品に対して暴言はいたりもしてます。気に食わない人はみないでね。

見る人はそういうもんだと理解の上で読んでね。後、異論反論あったら是非どうぞ。

 

2・物語の設定・時代背景と舞台の土地

 

 

 「どろろ」は、手塚漫画の中でも極めて読解力が求められる漫画だと私は思っているのだが、読み解くにあたり、それを難しくしているのが時代背景と、舞台である土地の設定だと私は思っている。

 まず、時代的には戦国最初期の辺りになることはかなり知られていることなのだが、意外と背景となった土地・舞台となった地域については言及されていることがほとんどない。

 物語において、かなり重要になってくるのだが、舞台となった土地は現在の富山県から能登地方にかけての一帯、昔の加賀の国だと推察できる。

 根拠となるのが、作中で語られる豪族の名前に朝倉氏と富樫氏があげられること。そしてどろろの父親である野盗火袋の存在である。

 この時期のあまり歴史作品で取り扱われることがないため、よほど日本史に詳しい人しか分からないのだが、富樫氏は当時権力を衰えさせていた足利幕府へ協力していたため、領内に高い年貢を課しており、なおかつ新興宗教である一向宗が流行り、お布施を取り立てていたため農民の困窮が激しくなり、一揆をおこされ守護の座より追い落とされてしまうのである。

 はっきりと明言されているわけではないが、「どろろ」は、ちょうどこの時期の物語になるのである。

 

 ちなみに、この後加賀は「農民の国」などと称されるものの、実態には一向宗の領地になり、宗教により農民は兵として組織化されてゆく。

 エンディングで、百鬼丸に盗賊になるエネルギーがあるならそれを権力との戦いに使うよう諭されたどろろもまた、その流れに飲み込まれていったのかもしれない。

土地柄と、物語後の歴史的経緯が、私が、「どろろ」を「宗教に対するアンチテーゼ」とする理由の一つである。 

 

 

 

これはあくまで個人的な感想録、解説です。既存作品に対して暴言はいたりもしてます。気に食わない人はみないでね。

見る人はそういうもんだと理解の上で読んでね。後、異論反論あったら是非どうぞ。

 

1・どろろとは?

言わずと知れた手塚治虫の漫画。というか、難解すぎるとか、当時にしては斬新過ぎたのか、コアなファンがいる一方、評価が定まらない作品としても有名。

主人公はコソ泥の少年?どろろ。なのにしょっぱなに出てくるのは百鬼丸で、基本的に彼を中心に物語は進んでいく。

というのも、百鬼丸は身体の48か所を妖怪に奪われており、それを取り戻すために旅をしているのに、どろろが関わっていく。物語の重きを置くのが百鬼丸のために、主人公を百鬼丸だと勘違いする人も多いが、作者がきっぱりと主人公はどろろであると明言している。

ちなみに、百鬼丸のストーリーにおける比重の重さゆえか、一度目の白黒アニメの頃、途中で「どろろと百鬼丸」に改名されている。

 

現在までに先述の白黒アニメを含め、アニメ化が2回、実写映画化が1回、ノベライズが3回、ゲーム化が1回。続編?が1作に焼き直しが1作。スピンオフ的なものが1作存在している。

ぶっちゃけ、原作を読み込んでないような内容が多い。下手に原作に沿っているだけで、手塚治虫が仕掛けたであろうからくりに気づいていないんではないかと思う作品がほとんどである。

じゃあ、どろろとはどんな漫画か?をぶっちゃけるなら、

「火の鳥のプロトタイプ」であり「仏教のアンチテーゼ」である。