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※本ブログの立場と私の問題意識を最も端的に示した記録です。
関西のある山に早朝から登拝いたしました。
山の神様と水の神様を祀る儀式、および2回目の7年修行のお礼参りに三重県伊勢市宮川に参りました。
およそ1年ぶりに鹿児島大学の研究会に参加してきました。

秋名のアラセツ行事、ショチョガマと平瀬マンカイについての発表です。
私の関心は「過去ノロ行事にユタが関与することがあったが、現在でもユタは関与しているか。人的関与だけでなく、神具の共有、知識の共有含め」
こちらにあります。
というのも「ユタの習俗がノロの行事に付随して継承されれば良い」と思うためです。
ノロの行事は「公開性」があります。これは
・共同体承認
・記録が残る
・継承の枠組みがある
という形式になります。
だからこそ継承される可能性が高いですが、ユタの場合それらがなく、継承が途絶える恐れがあります。
そのため、「ノロ行事に付随する形で、ユタの習俗も継承されれば良い」、と考えるのです。
発表を聞いた感想は、今まで抱えていた謎が一つ一つ解け、とても有意義なものでした。
発表された町泰樹先生ともお話でき、奄美・琉球のノロ・ユタの習俗について理解が深まりました。
私は戒律上、発表主体にはなれませんが、今後も学ばせていただきたいと思います。
ユタ界には協会がなく、戒律はあっても統一的な倫理規範がありません。
これがユタマンチャー(偽ユタ)やユタ崩れ(神様が離れたユタ)が生まれる要因の一つだと考えます。
そこで、まず私の一門用の倫理規範を作成してみました。
ユタ倫理規範(私案)
結論 神が離れたのではなく、修行者が神に届かなくなったため
交通地理学理論からみたユタの修行条件
はじめに──なぜ「生活の仕方」が神事を左右するのか
ユタの道において語られる「神が離れる」「ユタ崩れ」という現象は、しばしば信仰心や道徳の問題として説明されてきました。
しかし私は、修行中に巫病で働けない状態で生活のために生活保護を受けた方が悉く修行に失敗しているのを見て、果たして精神論や信仰の強弱で説明できるのだろうか、と違和感を覚えています。
本稿では、交通地理学者エドワード・アルマンが提示した「補完性」、「可動性」、「代替性」の概念を手がかりに、ユタの神事が成立する条件を考えたいと思います。
アルマンの補完性とは何か
アルマンの理論では、ある場所Aに欠けているものを、別の場所Bが持っており、かつ両者を結ぶ可動性があるときに、はじめて関係が成立するとされます。
これをユタの修行・神事に当てはめると、次のように読み替えられます。
- 場所A:現在の自分/今いる土地
- 欠けているもの:この場では得られない神性・位相・気配
- 場所B:特定の聖地、境界、あるいは島外・海外
- 可動性:自らの判断で移動できる自由
神事とは、欠如を認識し、それを補完するために移動し、位相を更新して戻る行為です。これは極めて地理学的な営みでもあります。
可動性を失うことの意味
生活保護を受けると、生活の中で最も深刻な制約は、金銭そのものではなく、可動性の喪失です。
可動性を奪われるとは、
- 行きたい時に行けない
- 行く理由を自分で決められない
- 境界を越える判断権を失う
ということを意味します。
この状態では、欠如を感じても補完に向かうことができません。結果として起こるのは、「神が罰を与える」ことではなく、神性を更新する回路そのものが断たれるという現象です。
代替性がないという条件──なぜ移動は不可欠なのか
アルマンは、交通が発生するための条件として「補完性」と並んで、代替性が存在しないことを挙げています。
代替性がないとは、
その場所で得られないものは、他の手段では代替できない
という状態を指します。
ユタの神事においても、この条件は決定的です。
- 特定の神性は、特定の土地・境界・位相でしか得られない
- 書物・想像・代理の祈りでは代替できない
だからこそ、実際に移動する必要があります。
もし「どこにいても同じ」「心の持ちようで代替できる」と考えてしまえば、移動は不要になり、補完の回路は閉じられます。これは一見合理的に見えて、神事にとっては致命的です。
代替性がないという認識こそが、
- 移動を必然にし
- 境界を越える覚悟を生み
- 神事を現実の行為として成立させる
基盤となっています。
なぜ「神が離れる」と感じられるのか
ユタの世界では、禁忌を破ると「神が離れる」と言われます。しかし修行中に関しては、神が去るというよりも、
神に至るための交通網が崩壊する
と表現した方が正確でしょう。
神は常に別の位相・別の場にあり、留まり続ける者のもとには現れません。移動し、境界を越え、更新することが前提条件です。
可動性を失った状態で神事を続けようとすることは、補完なき補完を求める矛盾を抱え込むことになります。これがいわゆる「修行中のユタ崩れ」の実相だと私は考えています。
「生活保護を受けられない」という判断について
ここで誤解のないように書いておきますが、生きるために生活保護を受けることを否定しているわけではありません。
否定しているのは、可動性がない状態での修行です。
結び──神事とは「動ける生」においての技法である
ユタの修行は、以下のプロセスを経ます。
- 神様に指示され欠如を自覚し
- 補完のために移動し
- 再び戻る
もしこの回路が断たれたなら、その時点で神事は成立しません。神が去ったのではなく、修行者が神に届かなくなったのです。
以上が、生活保護を受けるとユタの修行に失敗する、についての私の考えです。
呪術依頼でいただいた書簡に毎朝拝みをするのですが、今朝は右腹部に痛みがありました。
胃のあたりです。
依頼者に連絡して内臓の痛みにお気をつけください、とお伝えしたところ、久しぶりに朝からしばらく胃が痛かったとのことでした。
書簡を通じて入る痛みも神様からの注意ですので、十分お気をつけくださいませ。
体調不良を抜けた12月からの判示再開後、「五行視」の調子が良いです。
能力が一段階上がった感があります。
以前よりも鮮やかに、深く視え、相談者にアドバイスができています。
本来私の主能力は呪術でありますが、より人の役に立てるよう神様から与えられたのが「五行視」です。
私の「五行視」は陰陽五行をベースにしていますが、私なりの解釈で判示をしています。




