二千十八年四月二十三日午前十時、東大湾城への道に感慨深い思いで立った。少し肌寒かったが、前日の、全くと言っていいほど稀な雨も上がり、砂溜まりのラクダ草が砂埃が洗われ緑が増して美しく見える。
砂漠にもこんな姿があるのだと改めておもう。砂漠と言えば突き抜けるような青天井と言うのが普通だが、今朝は、雲間からは時たま青空が見えるだけで、一瞬にして白い雲に覆われその輝きを失った。周囲を見渡せば何も遮るものもない、漠々とした単純で無機質な景観が続いている。今まで二度東大湾城に挑戦したが、二千十三年六月の時は、灼熱地獄の砂漠の中をそのあまりの暑さに途中で断念。二千十四年四月は、砂嵐襲来とそれに伴った寒波で、再び阻まれ、今回で三度目であったが、なんと中国人民解放軍の管理下になっていたのである。元々、エチナ河を挟んで東西にある大湾城は、中国軍西部軍区酒泉衛星発射センター施設内の砂漠の中にあり、千九百三十年代に、スイスと中国合同の、西北科学探検隊によって発見されるまでは、大湾城の詳細は分かっていなかった。だがその時に多くの遺物が発見され、中国文物重要文化財に指定された。それ以来、金塔県とエチナ旗(郡)が長年、所有 権をめぐって激しく争いを続けたが解決が付かない為、昨年より軍の管理下になったという。以前はエチナに通じる幹線道路で酒泉から百キロ程の所から西側の砂漠に入れば大湾城を目指せたが、軍の管理下になってからは、道路から東大湾城に通じる道は鉄扉で閉ざされ、軍の許可がなければ入れなくなっていた。私は遥々何千キロもの道程をやってきて、今回が最後の挑戦と思っていたので、全くの意気消沈である。運転手のQ氏と我が王氏に「何とか交渉してもらえないか」と哀訴嘆願したところ、運転手のQ氏は、「軍エリア内通行許可証をもっているので兵隊に頼んでみよう」と言った。彼と王氏が解放軍屯所のドアを開けて中に入ると、若い番兵が出てきたので、「我々は大湾城の学術調査に来たので入れてほしい」と言うと、その若い兵隊は、無言のまま何の疑いもなく鍵を持ってきて、鉄扉まで案内して鍵を開けてくれた。出発前にはS大学の大湾城の研究者Y氏から、場所が場所だけに私が日本人でもあり、スパイ罪で捕まる恐れがある。既に七人の日本人がスパイの疑いで公安に収監されている事は、中国では周知の事実だと忠告を受けた。そこで私は王氏に言われるままスマホやタブレットの写真を全部破棄し文章も削除した。そして持参した自署本も捨ててきた。だがあまりにも簡単に通過出来た事に安堵感と番兵への感謝の気持ちから、私が日本から持参した手土産をその番兵に差し出したが、いらないと首を振った。私達は粘って鉄扉の 前でしばらく押し問答、結局受け取ってもらえなかった。決して賄賂ではないただのお菓子だが、この国では末端の兵隊に至るまで習近平の汚職追放政策が徹底している事をあらためて実感した。私達を乗せた車は扉を抜けると直ぐ鉄路を横切り、以前は道はなく凹凸の烈しい皺だらけの砂漠の大地だけが続いていたが、今では無舗装の軍用道路になっていた。私はカメラのファインダー越しにキャタピラ跡や四輪駆動車の跡をあちこちに見かけたが、それらが写真に写らないように注意したが、今ではここが軍施設内である事で非常に緊張した。私はただの一旅行者でありスパイの疑いだけは避けねばならない。目的は東大湾城のみである。砂漠の道を二十分ほど走った所で道は途絶えた。だが前方遥かに高々と烽火台が聳え、少し離れた南側には東大湾城がしっかりした形をとどめて視界に入ってきた。
 
 
遥か前方に東大湾城が見えてきた。砂上には軍用車のタイヤ痕。
 
 三度目の挑戦でやっと、目にした瞬間であった。はやる気持ちで、波打つ荒れ果てた大地に足を取られながらしばらく歩いて、東大湾城の前に立った。やっと辿り着いた達成感もあったが少し失望感も感じた。王氏がポツリと「どこの故城も中は空っぽで同じだな~」と言った言葉に表徴される様に、私は分厚い城壁と入り組んだ外観が優美な風格を漂わせていたので内部の遺構が可成り残っているものと想像していた。
 
 
 
だが城の内部には崩れた建物跡らしき土の塊が各所にあったが、平らな部分にトゲっぽいラクダ草が生えているだけで、城内がどんな構造だったか想像もつかなかった。内部はかなり広く、城壁の内側には夥(おびただ)しい梁穴の跡が模様のように見えた。城壁内をしばらく歩いたが、城内の構築物跡はただの土の山にしか見え ないので、城外へ出てゴビ灘(たん)と呼ばれるこの砂漠の小石だらけの周囲を歩いた。城から少し離れて南と北に配された大きな烽火台が黒い口を開けて高々と聳えていた。
   
 北側の烽火台                        南側の烽火台
 
北側の烽火台は、兵隊が監視の任務にあたる望楼部分は木造だったと思われ、跡形もなかったが、その下の部分は四角推形の塔状で、下部は破損も見られたが、上部にいくにしたがって版築の形をはっきりとどめていた。エチナ河に沿って、一直線に南北に伸びる土塁があった。周辺の起伏と見紛う程に崩れていたが、もとは城壁だったにちがいない。また往時は城塞の周囲に屯田の為の灌漑施設があったと思われるが、地面に残る凹凸の構築物跡を見ただけでは、専門家でもない私のような者には、判別がつかない。足元をよく見ると小石に混ざって、瓦、壺、陶器などの破片があちこちに散らばり、無機質な広大な遺跡が、急に往時の人の営みを思い起こさせた。城をぐるりと廻って東側に来ると、石碑があった。それには次の様に刻書されていた。★千九百三十年、中国とスイスの西北科学探検隊によって発見される。★十六か所を採掘した結果、漢の木簡千五百枚、木器、竹器、瓢箪(入れ物)芦器(すだれ)、石器、陶器、銅、鉄器、皮、織物など。西夏印刷文書一件、西夏文字で印刷されたシルク一件、★当故城は版築で築かれ、平面・方形で東西二十三メートル、南北二十六メートル、軍事施設である★石碑は軍と地方政府で去年建立、中国文物重要文化財に指定された。周囲は植樹されたが全て枯れたと記されてあった。  大湾城は「障」と言われる軍事専用の施設で、一辺が五十米程の正方形の外城壁を巡らせ、中には兵員達宿舎や様々な施設が建てられていたという。その城壁の上には等間隔の女檣(凹凸の隙間)があり、攻め寄せる敵に弩弓を放つ仕掛けがあって応戦する事ができた。その外城壁の東側の一角には、分厚い城壁で囲われた東西二十三米、南北二十六米の本城(障)があり、外城壁が敵に突破されても、頑丈な防衛機能を備えた本城に、立て籠もって戦う事ができた。その本城‘(障)が今残っている大湾城である。
城朽ちても城壁ありだ。今、その内部に何も残っていない故に往時を偲ばせる。私は立ち去りがたい思いで東大湾城を後にした。やはり東大湾城は美しく輝いて見えた。つわもの達の夢の跡に、もう会える事はないと思うと、何か熱くなるもを感じ、離れゆく姿に幾度も振り返って望むと、がっしりとした城砦と天に突き出た烽火台が私の心に、畏敬の念を生じさせた。もう四時間も過ぎた。顔にそよぐ風は暖かく、来た時と違って空は青空に満たされていた。
離れ難い思いで振り返ると東大湾城が霞んで佇んで見えた。
 
私達は東大湾城を離れ、帰路につくため車に戻ったが、又憂鬱な気持ちになった。解放軍屯所を通らなければならない。来た時のように無事通過できるだろうか不安を抱えながら車に乗り込んだ。