懸壁(けんぺき)長城は、前回、嘉峪関に来た時にも訪れた場所であったが、その時はあまりの急斜面と高さを前に「私の脚力ではてもと無理}と登るのを断念した。だが、今回はこの旅に備えて脚力トレーニングで十分に鍛えてきているので、私は俄然、挑戦することにした。懸壁長城は、嘉峪関の北東七キロに位置する最北端の万里の長城で、名の由来は、城壁があたかも、天空に懸けられているように、見えるところからつけられたものだという。黒山の急斜面を、長城が山頂に向かって伸びていくさまは、あたかも、龍が天空を目指して昇が如くである。

 

 

頂上には敵台(てきだい、見張り台)があり、そこに行くには、ただひたすら歩いて登る以外ない。王氏は若いので物凄い勢いで登っていくが、私はマイペースに撤し、呼吸を整えながら一歩一歩進む。心臓がバクバク高鳴ると休み、落ち着いてくると歩く。ようやく中腹まできて一望する雄大な山河は、言葉を失う程の圧巻である。

  景色に見入っていると、頂上から王氏から気遣いの声が掛った。私は意識がもうろうとしながらも、再びこのとんでもない急勾配の階段を登っていく。全長七百五十米、傾斜角度四十五度。私の足で凡そ四十分かかり、遂に登り切った。疲労はあったが、心地よい達成感に浸った。

 

その昔兵士が見張りについていた敵台         敵台への登り降り口

  その昔、頂上の敵台は十人程の兵士が駐屯し、監視や任務の交代、緊急時の救援、烽火伝達、武器食糧の貯蔵などが行われていたのだろう。私はレンガの床に立ち敵台の壁に寄り掛って、登って来た城壁の石段に目をやりながら、とりとめもなく往時に思いを馳せた。頂上の敵台での冬の酷寒、夏の酷暑の任務は、兵士達のとって筆舌に尽くしがたい、過酷なものだったに違いない。そう思って眼下を見渡すと、火力発電所と並んで酒泉製鉄会社の何本もの大煙突から黒煙が立ち上り、嘉峪関市の上空を覆っているのが見えた。歴史の評人としての地と、工業都市という二つの顔をもったこの場所に複雑な思いを抱きながら、人の気配のない敵台で、私と王氏はしばらく休息した。やがて下りにかかる事にして腰を上げると、数人の若者が元気な声を出し合って登って来るのが見えた。私が「チャーヨ(頑張れ!)」と声をかけると、彼らは元気に手を振って挨拶を返した。長城はさらに南に伸びて、北大河の凡そ八十米の断崖絶壁で途切れ、終着点となっていた。そこは明代の最西端の長城であり、半ば崩れかけた烽火台があった。それは西方から見て最初の烽火台であるところから、明の長城第一烽燧(ほうすい)と呼ばれている。明の第一烽燧