私が今回、旅の資料として持参した『エチナ河流域の国境監視所分布図』には、祁連山脈から流れ出る水はエチナ河となり、北へ二百キロ米ほどのところから二手に分かれる。東側に流れる方はムリン河、西側はナリイン河。そのナリイン河の尽きるところにソゴ・ヌル湖があり、そこから東へ五十キロ米ほど行くと広大な居延沢に辿り着く。さらにソゴ・ヌル湖と居延沢の間にある、漢代の殄北塞(てんほくさい)、甲渠塞(こうきょさい)、三十井塞(さんじつせんさい)を三辺とする三角形のエリアを橋頭保(きょうとうほ、拠点)とし、その中心に居延都尉府(居延城)が置かれたと記されている。

  古代中国が最も手を焼いたのは、モンゴル高原の遊牧騎馬民族「匈奴」である。紀元前四世紀末より三世紀にかけての約五百年の間、匈奴は頻繁に南下しては漢民族の地を侵した。その防衛上から万里の長城が築かれたといわれるが、私が訪れるはずだった居延城も、漢の武帝の時代にチベット系の美族(きょうぞく)と匈奴の連携を分断する狙いで設けられた最前線基地であった。今回の旅の目的は、その居延城の城壁に立つことであったが、モンゴル老人の忠告で断念することになった。ならばせめて居延沢だけでも見ておこうと、私達はそこへ向かった。エチナの町から車は二時間ほど荒野を走って居延沢に着いた。『居延海景区』と看板が立っている。海と名がつく立派な湖だが季節外れで全く人影はない。秋になると胡楊林景区や怪樹林景区とともにこの湖も中国各地からの観光客で賑わうのだろう。砂漠の奥にひっそりと静まり返る、その湖岸に私は立った。

       砂漠の中に満々と水を湛えた居延沢

  鉄製の桟橋が湖に突き出ていた。そこはエチナ河の流れ込む河口で、葦(あし)が生い茂り、その向こうに水を満々と湛えた居延沢が静寂の中に広がっていた。持参の観光パンフレットの写真の説明では風光明媚な湖と書かれていたが、湖岸の周囲には水草のようなものしか生えておらず、何の変哲もない光景である。

  

何となく時間を持て余していると、背後に何かの気配を感じた。振り返ると野生の駱駝が二頭、わずかに生えるラクダ草を食(は)んでいた。背中のコブは皺だらけでペチャンコ、体毛は禿げてボロボロだ。この水場を生息地にしているのだろう。

  

  「湖には広大な水面が広がっているのに鳥一羽、蚊の一匹もいないねー」と私が呟くと、「暑すぎてどこかに隠れているんじゃ」と王氏。さらに私が「昆虫でさえ許されない環境じゃ、それを餌にする鳥もいるわけないよねー」と言うと、王氏が突然「鳥だ!」と叫んで指さした。その先に視線を移すと、一羽の鳥がまるで未知なる訪問者を待っていたかのように、水面を滑るように泳ぎながら私達をジッと見つめている。たった一羽の水鳥に出会っただけで、私は実に情緒的になり、この何の変哲もない退屈な湖が、実に豊かな生命を育むオアシスと思えてきた。

    不思議なことに、砂漠の中の湖にたった一羽の水鳥がいた

 

  私はしばらくの間、遥かなる居延沢の岸に立っていることに多少の感慨をもって湖を眺めていたが、水鳥は水中に潜るでもなく、数メートル範囲を私達を眺めながら漂っていた。王氏が「もう、そろそろ出発しよう」と言った。私は名も知らない水鳥のもとを離れ難く、心がいたく感傷的になった。