蔕(へた)を逆さに突き立てた様な丸茄子型の仏塔(スブルガン)は、塗料が斑(まだら)に剝がれていたが、往時は金色燦然と彩られ、旅人は遥か彼方から輝く仏塔に吸い寄せられるように城門をくぐったにちがいない。
激しい砂塵を受けて塗料が斑に剥がれた仏塔
城壁上に立ち並ぶ仏塔(スブルガン)
私も、この仏塔に出会うためにやってきた。眼前の口の開いた城門を眺めながら、西域に向かう、またはやってくる旅人に思いを巡らした。
鈴を鳴らした駱駝(らくだ)や馬を引いた商人達、旅人の賑わいは、顔立ちも言葉も服装も異なる人だったのだろう。バーで葡萄酒を飲み、宴が催され、トルコ系やペルシャ系の美女が胡姫服にブーツを履き、胡旋舞(こせんぶ)を舞っている。灼熱や酷寒の中で、オアシスを辿って来た旅人にとって、歓楽と官能の時を必要としたに違いない。
とりとめもなく過ぎ去ったものへの空想にふけっていると、王氏が陶器の破片や木片などを抱えて戻ってきた。彼の親類に教師がいるので、教材用に持って帰るという。私も持ち帰れるものなら拾いたいと思ったが、、空港の手荷物検査が頭をよぎったのでやめた。私が王氏に「オレ、へたばったよ」と話しかけると、「コーラホット取って!}と聞こえたのでコーラの缶を渡すと、「何それ!カラホト撮ってよ」と云われた。聞き間違えた私は彼の発音を少し意地悪にからかったが、あまりの暑さで飲料水もコーラも本当にホットになってしまう。空のペットボトルを砂の上に置いておくと、たちまち奈良漬の瓜のように皺皺(しわしわ)だ。
カラホトをバックに写真を撮ると、彼もその場に座り込んだ。
砂に埋もれていく仏塔
そしてカラホトの最期がいかなるものであったかを語り合った。私がネット上で知り得た情報として「十四世紀後半に気候変動でエチナ河水系が枯渇し、当時の土壌を調査すると『放射性炭素……』でこの一帯の植物が枯死したという学説もあるようだが」と云うと、王氏は「いや! カラホトに限れば、無数に散らばる陶器、石臼、瓦の欠片(かけら)は砕いて敵に投げつけたからですよ」と答えた。うん!私も全く同感だった。すべての破片は自然に壊れたとは思えない、人工的に割られた、投げる武器だったのである。
十四世紀頃、河西回廊をめぐって、明とモンゴル勢力が烈しい攻防を繰り返していた。元朝崩壊時、元朝皇帝トゴン・テムルは大都を追われ、カラホトに潜伏していた時期があったという。では、カラホトは明によって滅ぼされたのだろうか、又はモンゴル勢力か?、私のような歴史家でもないただの旅行者は、それ以上残念ながら、何の知識も持ち合わせていない。チャニ・バトルの伝説に思いを馳せ、立ち去りがたい思いをでカラホトを後にした。
(カラホトの想像図) 私が楽しんで往時の想像膨らませて描いた図で資料的価値はありません