カラホト(黒水城)は神々と静かに横たわっていた
 
六月五日午後三時、カラホト(黒水城)に到着。初めてカラホトの姿を見た。
それは「アッ!」と声を上げたくなるほど、壮観の一語に尽きる。長い風雪に耐え、赤茶けた姿で砂漠の中に静かに横たわっていた。 城壁の左側の端に、カラホト(黒水城)のシンボルであり、魂でもあるチベット式仏塔(スブルガン)が、ひときわ幻想的に神々(こうごう)と聳えている。これを仰ぎ見た時、「ようやく遥かカラホト(黒水城)へ来た」という感動が心の底から込み上げてきた。
  城に通じる道沿いに、青いチベット柄に覆われた古めかしいゲル(移動式住居)がポツンと、南京錠を掛けて置かれていた。
  カラホト(黒水城)の管理人の住居か、青いチベット柄のゲルが置かれてあった。
カラホト(黒水城)の入場口は季節外れでか閉ざされていた
 
城の管理人の住居なのだろうか、でも誰もいない。城までは、五百米以上はあろうか、もう、王氏は大分興奮している。私のペースでは待ちきれないのだ。「じゃー、お先に!」と言って駆け出して行った。彼は私と同じように、イヤ!私以上の遺跡マニアで、私のシルクロードの旅はいつも、彼のサポートなしでは成し得ない。感謝の極みである。
 
  カラホト(黒水城)に向かって急ぐ王氏
 
  カラホト(黒水城)の西側の城門
  
  風が強さを増してきた。王氏の姿が、砂埃で時々かき消される。私は肩にかけたバッグが重すぎるのでその場に置いて、カメラと水ボトルだけを持って王氏の後をセカセカと追っていった。西側の城門に辿り着いたが、聳え立つ城壁の高さに驚いた。多分高さは十米はあるだろう。城門はアーチ形で、そこをくぐると、突き当りを左に誘導される桝形門になっていた。敵の侵入の勢いを止める構造である。資料によれば東西四百四十米、 南北三百七十米、方形でやや東西が長いと書かれていた。
   私は西側の城壁の上に立ち、城内を見渡した。東側にも門があって、その外側は砂漠が広がっていた。
  東側にも門があったが、その外側には沙漠が広がっていた。
 
城内には無数に建物跡の礎石が残り、中央には宮殿跡らしいものもあった。王氏が仏塔の立つ城壁上に姿があったので、私もそこに向かったが、塔の傍(かたわら)で風に吹き飛ばされそうになった。私は恐れおののき一段下がって風を避けた。そして王氏に向かって「風が強くて危ないぞ!気を付けて!」と叫んだ。彼は塔にへばりつくようにしながら「大丈夫!」といいながら写真を撮り続けていた。城壁上から眺望する周囲は地平線まで砂に煙っていたが、南側遥かに薄黒く山が続いているのが見えた。
  城壁上の仏塔(スブルガン)から手を振る王氏
  城壁を下りて城内を歩いた。あちこちに夥しい瓦や陶器の破片、木片、石臼の欠片(かけら)が散乱し、敵に投げつけた武器であったに違いない昔あった惨劇を物語っていた。落城の時、王バトルによって財宝が投げ込まれたと伝えられる、井戸かも知れない深く窪んだ場所もあった。
私がカラホト(黒水城)の往時を想像した図で、学術的な意味は全くないのでご承知ください
 
  私と王氏は宮殿や役所、寺院とか商人宿街、バザールなどを好き勝手に想像し「ここだ、イヤあそこだ!」と礎石の上に砂の堆積した城内を散々歩いて、城門の外に出た。すると、丸形屋根のイスラム寺院が城の外れにあった。イスラム教徒の旅人の為に違いないが、何故城外にあるのか、謎を感じたが、往時は城外にも大勢の人が住んでいたのかも知れない。
 
  城外にイスラム寺院跡があった
 
  高さ十米の城壁の頂上まで砂で埋もれている
 
 城の西北部の高さ十メートルもある城壁が、頂上部まで砂に埋もれていた。私は三時間も歩き回り、疲れてよぼよぼしている。城の周りに散らばる遺跡も見たかったが、暑さと強い風に体力を奪われ、少なからずへとへとで、その場に座り込んだ。そして黒水城を見上げると、城壁の上を大量の砂が煙を上げて疾(はし)っていった。