)[カラホトの主(あるじ)は、チャニ・バトルというモンゴルの将軍で、怪力の持ち主、その上勇者だったので、モンゴルの皇帝は彼を大変愛し、自らの末娘をバトル(黒将軍)に嫁すほどであった。そしてカラホトは交易でますます富み栄え強力になっていった。
  やがて黒将軍とよばれたバトルは、自らが皇帝になろうと考え始めたが、その考えは妻(皇帝の娘)に知られる事になり、彼女はその事を皇帝に密告する。皇帝は激怒して数万の大軍を送り、カラホト城を囲んだ。だがバトルの不敗の軍隊と堅固なカラホト城は全く落城しない。そこで皇帝軍は城内に通じる水源を断った。だが城外の水は涸れれても城内の井戸水は涸れず、城は容易に落ちなかった。皇帝はシャーマン(巫術師)を呼んで尋ねた。「師よ、如何にして城内の水を断てるか!」シャーマンは答えた。「エチナ河の上流を堰き止めよ!」と…
  その言葉で、皇帝は更に一万の軍隊を投入してエチナ河の上流を堰き止めた。数日後、城内の井戸から水が消え、羊や牛馬は死に瀕(ひん)し、植物は枯れて人々は渇きに苦しんだ。バトルは城内に百本もの井戸を必死に掘ったが、水は出なかった。やむなく、バトルは八千の兵と共に城を討って出て勇敢に戦ったが、圧倒的な兵力差は如何ともし難く、絶望の果て最後の近い事を知った。やがて、守兵も住民もことごとく殲滅され、バトルは二人の妻と息子と娘を、敵の辱めを受けぬよう自らの手で殺し、井戸に投げ入れた。財宝のことごとくも井戸に投げ込み、呪いの言葉を吐きながら、北西の抜け道から馬一頭と共に、逃げて行ったという。その抜け道は今も残っている。
  
    カラホト(黒水城)の城壁は日干し煉瓦で造られていた                   構築物がはめられていたような跡がある城壁面
 
 それ以来、呪われた無人のカラホトは、砂漠の中に埋もれてその存在さえ忘れられたが、一千九百七年~一千九百九年にロシア人探検家ピヨートル・クズミッチ・コズロフによって発見された。コズロフは、土地の人々から悪霊が棲む呪われた廃墟と恐れられた城の話を知り、それに惹かれて、探検したという。この哀しい物語は、土地の人々によって詠い継がれていたのである。
    黒将軍バトルが逃げていったという抜け道が見える。