東へ西へと往く旅人達は、砂漠の中のオアシスを、点々と辿って行った。私達も嘉峪関から酒泉、そしてエチナにやって来た。ここを基点に今日はカラホト(黒水城)に向っている。その昔、旅人がひとたびオアシスを離れると、そこには不毛の大地だけが拡がり、人の営みを拒み続けたという。私はその過酷な道を、車を駆って走っている。

  エンジンの響きの中に風の音がざわつき、車の窓枠の鉄製部分は熱くて触るとヤケドしそうだ。道の至る所に陽炎(カゲロウ)がたって,気温は摂氏四十度を越えている。カラホトは居延城より南に位置しており、往時はエチナ河の水系が幾筋にも分かれる、東側の湖の近くにあったにちがいない。

  一千三十八年、チベット系タングート族の李元昊(りげんこう)が、興慶府(こうけいふ、現銀川市)に西夏王国を樹立した。そして王国が勢力を西に広げるにつれ、河西回廊の敦煌と興慶府の直線上の中間点に、城塞で巡らした行政と軍事を兼ねたカラホト(黒水城)を置いた。一千二百二十七年まで二百年近く続いた西夏王国も、チンギスハン軍の度重なる攻撃で滅亡したのである。

  カラホトは交易上の要衝だったため、破壊を免れ、モンゴルの統治のもと引き続き二百年以上も繁栄を続けたと言われたが、ある伝説を遺(のこ)して、忽然と砂漠の中に消えてしまった。私はその話に大変興味を感じたので、カラホト滅亡の伝説を知っている人はいないか、金塔県の宿の主人趙さんに訊いたところ、当地の歴史に詳しい李さんという老人を紹介された。フロントの女性から連絡を受けてやってきたのは、六十歳くらいの小柄な老人で、分厚い本をバックに堤(さげ)て、夕刻ホテルにやってきた。そして、自分はこの地の郷土史家で様々な勉強と研究をしていると言い、カラホト(黒水城)の伝説を語りだした。