陽関へ向かった。敦煌市街から南西七十キロ。玉門関の南(陽)に位置するので、この名が付いたという。途中、幾つかのウイグル人の村の中を通った。この辺りは、どこでもブドウで生計を立てているよう
ブドウ畑
ある村で、十四~五才の少女が、傍の水路で西瓜を洗っていた。運転手は、車を止めて彼女に陽関への道を尋ねた。彼は漢人だが地元の人なのでウイグル語が話せるという。だが話してはいるが何とも要領を得ない。少女が恥ずかしがって噛み合わないようだ。仕方ないので運転手は車を走らせようとすると、少女は洗ったばかりの西瓜を割って、はにかみながら、見ず知らずの私達に食べるように差し出した。甘く冷たい西瓜で、すごく美味しかった。言葉は通じなくとも素朴な親切心が伝わった。お礼に何かあげたかったがあいにく何の持ち合わせもなく、礼の言葉だけになってしまった。
少し道に迷ったが一時間程で陽関に着いた。広漠とした小石だらけの砂漠の中に漢の詩人、王維 が友との別れを惜しんで詠んだ詩碑が建っていた。
王維の詩碑
渭城の朝、雨軽塵をうるおし
客舎青々柳色新たなり
君にすすむ更につくせ一杯の酒
西のかた陽関に出ずれ
故人ながらん
(明日、陽関の関所を越えてしまえば
その先には、もうあなたの知人もいないだろう、
せめて今宵はさらに一杯の酒を
酌んで語りつくそうではないか)
陽関遺跡
陽関
小高い丘の上に烽火台趾だけが残っていた。古(いにしえ)の姿は想像もつかないが、丘の上から見渡すゴビ砂漠は絶景だ。陽関は西域南道に出入りする関所だが、見渡す砂漠は道らしいものは何もない。昔から旅人は南に雪を頂いた山脈(アルティン?)や西方の崑崙(こんろん)山系の山並みを目印に、道なき途をひたすら目的の地を目指し歩いたのだろう。玄奘三蔵もインドからの帰途、陽関に入った。「見張り台の上から、陽関の守備兵は、遙か地平線の彼方に黒い点となった一筋の隊列を見る。それは、皇帝の命で迎えに出た役人と共に、十七年振りに故国の土を踏もうとする玄奘の一行であった。
陽関故地の高台から地平線を眺めながら、何かの三蔵法師伝で読んだシーンが頭に浮かんだ。
夕暮れに浮かぶ陽関故地
ここにも貸馬屋があった。100元(1500円)で一時間借りられるという。そこで聞いた話しによると、この砂漠は古戦場で多数の遺物が今も見つかるという。どんな歴史的ドラマがあったかは分からないが、その話に興味を持ち、馬を借りた。高台から見下ろす砂漠は波打ち砂丘の連続だったり、小石混じりの荒野だったり千変万化だ。無論人影など全くない。私は馬上の人となり砂漠に乗り出した。
一時間半ほど馬で歩き回って戦利品は鉄砲の弾四個、陶器の破片多数、錆びた鉄片、矢じり二個など、日は西に傾き、辺りに砂丘の影が指してきた。遙か彼方の高台には、西日を浴びた陽関故址が黒々と浮き上がるように見えた。私はそろそろ戻ろうと思い、陽関目指して歩き出すと、遠くに砂塵を舞い上げて疾走してする二頭の馬があった。馬上の人は、貸馬屋の男と王君。「何でこんな遠いところに来たの!とても心配した。砂漠で迷子になったらお陀仏だよ❗️」と悲しそうな顔で怒った。私からは陽関の高台が見えたのだが、彼らからは私が見えなかったようだ。私は「恐縮と反省」
陽関遺跡からほど近くに、地方の行政によって造られたハコモノ遺跡群