『西域余聞』陳舜臣著 に往時の玉門関の様子が書かれている。ホータンで産出した玉石は楼蘭を経て玉門関を越え敦煌にいたる。古(いにしえ)からおびただしい駱駝、馬、驢馬、そして人間が重い玉石を東へ運ぶ行列が見られた。その行列から落伍すれば人も動物も死あるのみであった。玉門関は敦煌に運ばれてくる玉石の関税をとる関所だったのだ。そしてもう一つの使命は、西域経営の最前線基地でもあり、多くの兵士が駐屯する要塞だった。

玉門間遺跡

 

 私は玉門関の際に立った。土を突き固めて造られた城郭は、一辺が二十五米、高さ十米、ほぼ方形で北と西に三角の形に開けられた門があった周囲は城郭やそれに付随する建造物が土に還って丘になり、往時は</div><div>大規模な城塞だった事をうかがわせた。

 

 

 

 玉門関西側にある三角形の城門から内部を見たが、分厚い壁が四方に立ちはだかるだけで何もない。この門を出ると、その先は荒漠とした砂漠だけが広がっていた。 貸馬屋がやってきた。まだ十四、五才のウイグル少年だが、振る舞いは大人振っている。「馬かりないか?関の周囲を回るだけ100元(1500円)」という。時間は10分程度というので、べらぼうに高い。私は「おい坊や、貸馬の相場は一時間百元だぜ!」というと「七十五元でどうだ!」と威丈高な物言いだ。なんと!大人をナメテ!私はは頭にきたので「ダメだ!十元なら乗ったやる」と言って歩き出すと、坊やは「オーケー、オーケー」と、急に子供っぽ仕草になった。なんだこの値段のいい加減さは思ったが、いっぱしの大人の真似をして逞しくなっていく西域商人のDNAをみた思いでいたく感心した。

 

 馬に乗って玉門関の丘から砂漠の中に下りていった。近くに疎勒河があるせいか、小石混じりの荒野の中、所々に塩化物に縁取られた水溜りがあり、淵には葦が茂っていた。

   

李広利は、第一回フェルガナ遠征で敗れ、十分の一にまで減ってしまった兵と共に玉門関に辿り着いた。しかし、敗戦の報せに怒った武帝の命で、関門は固く閉ざされてしまった。それから一年、李広利は失意のうちに数千の将兵と共に、夏は灼熱、冬は酷寒の中、関外のこの荒野で過ごすことになる。ふと李広利や将兵の失意の姿が頭をよぎった。往時と殆ど変わっていないであろう、この景色に思いを馳せながら馬で経巡ったが、たった10分のレンタル時間がきてしまった。

 さて、玄奘がこの玉門関を如何に越えたか…。当時、関門外西北にかけ五つの烽火台があり監視兵が厳重に警備しており、玄奘が通過してきた各州県から「玄奘なる僧、国境を破り国外に赴こうとしている。厳しく捕えよ」と指名手配が回っていたという。当時河西回廊に仏教界の秘密地下組織のようなものがあって、その協力で西境の関門まで来る事が出来たのだが、この時は乗ってきた馬にも死なれ、大難関の玉門関があり、その先には莫賀延磧と呼ばれる大砂漠が広がっていた。三蔵法師伝の中ではこの時の心境を「法師は心が愁い乱れて一カ月も沈黙の日々を過ごした」とある。だが若き青年僧か再び奮起し馬を調達、玉門関を突破するため、昼間は身を潜め闇夜に城壁に沿って行動したが、第一烽火台の警備兵に矢で狙撃され捕まってしまう。さすがの玄奘もこれで万事休したかかにみえたが、その砦の守備隊長が仏教徒で、一度は翻意を促されたが玄奘の決意は固く、守備隊長の助力で玉門関を抜けて莫賀延磧の大砂漠に踏み入れていったのであった

玉門間に続く長城、等間隔で烽火台が続いている。