ついに探しあてた場所には、巨大な城壁が連なっていた。城壁の傍(かたわら)に唐王城とかすかに読める石碑が立っていた。唐代の安西都護符の下に置かれた安西四鎮の一つ、クチャ駐屯軍の城塞かと思った。だが現地で買い求めたシルクロードの地図には、唐王城と大故城と書かれた城址が数多く載せられていた。事由のわからない城址をそう呼んでいるようだ。漢の武帝の時代敦煌が開かれ、その西方の砂漠の中に、幾つものオアシス国家が散在していたのが知られるようになった。国家といっても大小さまざまで、人口規模か千人から数万人を擁するものまで、星の数ほどあったらしい。城壁の上に立ち、ここがオアシス国家でこの城が土着の西域人のものだったのか、西域駐屯軍の漢城だったのか、思いを巡らせた。城壁の高さは崩れて土塁状だが、五、六米はある。城壁の外側には、開城(出城)と思われる台形に近い丘があり、 日干し煉瓦が剥き出しになっていた。城内のほぼ中央には、建造物が崩れて小山になって、周囲には木片が夥しく散乱していた。空っぽな城内を見回し、空想にふけった。城門をくぐるとニ、三米幅の道が真っ直ぐはしり、両側に建物が並ぶ、商店や旅館、鍛冶屋、などがあったかも知れない。再び城門(漢城なら楼閣門)そして内城壁に囲われた王城が瞼に浮ぶ、王君と散らばる木片を拾い集めて、塗料とか模様とか彫刻など宝物になる大発見が刻まれてないか、穴が開くほど見つめたが、長年の風雪に削られ、乾燥でひどく木目の浮き立つ反り返ったものばかりのだった。城郭は方形で南北がゴルフ場のミドルホール位だから四百米位か、東西は三百米程で四隅には突出部分)があった。城外に出た。出城と烽火台があり上部に上って遠望すると、北側に天山の山並が連なり、それ以外はどの方向も地平線の彼方まで、
大地以外何も見るものはなかった。風が頬を撫ぜた。心地よい風だったが、急に火を燃やして烽火の実験をしようと、木片や枯草などを集めて火をつけた。だが乾燥しきっているので、激しく燃え上がったが煙は全く出なく烽火(のろし)にはならなかった。