漢の時代、河西回廊をめぐって漢と匈奴は激しい戦闘を展開した。
衛青や若い将軍・霍去病(かくきょへい)は、匈奴のお株を奪う軽騎兵を駆使して戦闘に勝利。
匈奴を北へ追い払った。
さらに長城は西へ西へと伸ばされ、王門関、陽関までを前線基地とした。長城の各所に守備兵を置き、屯田も行われた。
しかし、それも長くは保持できなかった。
戦線が延びすぎたのだ。
明の時代になって支配地域を可能な限り後退させ、専守防衛に専念する。
それが、この前線基地・嘉峪関だ。
自らの土地を回復しようとする遊牧民族のパワーは、それほど強かったということだろう。
草木の片鱗すら見当たらない光景を眺めながら、素朴な疑問がわいてくる。
農耕民族の中国人にとって、なぜ砂漠だけしかない土地が必要だったのだろうか。古来から砂漠に適応し定住、或いは遊牧していた人々の天地だったのではないか……と。
城壁を下りて城内を散策する。
内城壁は版築(土をワラでつき固める)のため、かなり傷んでいるが、外城壁はレンガなので長年の風雪にもよく耐えている。
城内の花壇や畑を見ながら、長い下り坂を下りていくと、東側の門に出た。
ここは長安から西域に向かう旅人の入城門だったのだろう。
馬やラクダを引いて、はるばる砂漠を越える商人や旅人で賑わい、服装も顔立ちも言葉も異なる人達が、この城門をくぐっていく姿がまぶたに浮かんできた。
しばらく散策した後。
関門(西域への出口)を通り、ゆるやかな石畳の坂を進む。
30メートルも歩けば、石コロと砂だけの世界だ。
東屋があった。
旅人は、再び故国の土を踏めないかもしれない。
決別の思いを、あるいは苦難を心に抱き、決意を新たにしたのだろうか。
この小さな建物に座って心を整理したのかもしれない。
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