関連エントリ:論文

ぜひ読んでください

Gaertner, S. L. & Dovidio, J. F. (2005). Understanding and addressing contemporary racism: From aversive racism to the common ingroup. Journal of Social Issues, 61, 615-639.

 論文だけどすごく平易な,どちらかというと一般向け啓蒙書。
 人種差別は昔のことだ。アメリカ人の多くもそう思っている。でも人種差別は,差別なんか自分には関係ないと思っている人の心にも,陰険な形で忍び寄ってくるのだ。日本人にとってもけっして他人事ではない。それぞれの実験は,できる限り現実の場面に似せてあって,微妙な差別がしかし重大なものであることを痛感させられる。第一線の社会心理学者が描く迫真のノンフィクションです。おまけに一般の方向けに訳したので,ぜひ読んでください。
 後半は,偏見の低減はどうすれば上手くいくか。よく共通の敵を作ればいいなんていわれますが,必要なのは敵ではなく共通のアイデンティティだ,というのが著者らのこれまでの研究。

研究者向けの評:
 同時期の重要な理論,現代的人種差別主義(Modern Racism;McConahay, 1986)については全く触れられていない。Dovidio & Gaertner (1998)で既に両者の統合が図られていることを考えると不満が(その後の展開はSon Hin et al.(2008)や2008年刊Nove PublishingのThe Psychology of Modern Prejudice中のBrochu et al.やHarton & Nailなど)。
 また集団接触のモデルについても,共有アイデンティティモデル以外についてはわずかしか言及されていないので,不満が。同年のAdvances in Experimental Social PsychologyのBrown & Hewstoneを見ろということかな…。

内容   ★★★★★ 一般の人が面白く読めると思います。
読みやすさ★★★★★ 大学入りたての人向けのテキストにいいんじゃないでしょうか
入手容易度★★★☆☆ 一般の人は下の訳で十分
総合評価 ★★★★★



 まず回避的人種差別主義(aversive racism)の研究をレビューし,次に集団の統合のモデル――共通アイデンティティモデル――の研究をレビューする。


 回避的人種差別主義の最初の重要な実験はGaertner (1973)である。この研究は,リベラル及び保守の政党員に,黒人もしくは白人(訛りで容易にそれと分かる)の自動車運転手(実験協力者)が,高速道路で車が故障したから助けてくれと電話をするというものだった。運転手は,手持ちの最後のコインで間違った番号に電話をしてしまった,代わりにメカニックを呼んでくれと,被験者に依頼した。保守党員は黒人の依頼に応える確率が白人の依頼に応える確率より低かった(つまり差別した)が,リベラル党員では差は見られなかった。しかしながら,リベラル党員は,黒人からの電話の時には,白人からの電話の場合に比べて,依頼を聞く前に電話を切ってしまうことが多かった。つまり,別の種類の差別は示したのである。この結果は不思議なものであったが,回避的人種差別主義(Kovel, 1970)の枠組みで説明できるものであった。

 
 我々の回避的人種差別主義の研究は,アメリカの白人における,他人種に対する矛盾に満ちた態度に焦点を当てたものであった。Myrdal(1944)は,アメリカにおける平等主義的な規範と人種差別的な伝統の矛盾を”アメリカのジレンマ”と呼んだ。60年を経ても,このジレンマは健在である。平等はなおも社会の中心的価値であり,1960年代の公民権運動を経て,差別は非道徳的であるばかりでなく,違法なものになった。しかし人種間の格差,差別はなおも残っている(Dovidio & Gaertner, 2004)。

 Kovel(1970)は支配的人種差別主義(dominative racism)と回避的人種差別主義とを区別した。
 前者は,あからさまな嫌悪感を表すタイプの偏見である。これに対して後者の偏見の持ち主は,マイノリティが受けてきた差別に同情的であり,人種の平等という理想を支持し,また自分自身は偏見を抱いていないと思っている。しかし,おそらく無意識な,ネガティブな感情と信念(belief)を持っている。米国では教育の程度の高い,リベラルな白人に見られると考えられる。微妙な形態の差別だが,しかし結果は古典的な人種差別主義と同様,重大である。

 このネガティブな感情と信念は,正常で不可避な,そして往々にして機能的な,認知的,動機的,社会文化的過程の結果である。認知的には,内集団と外集団とにカテゴリ化することが,評価面でのバイアスやステレオタイプを生み出す(see Gaertner & Dovidio, 2000)。動機的には,集団に対しても勢力(power),地位(status),統制(control)を得ようという動機が,集団間葛藤をもたらす(Sidanius & Pratto, 1999)。社会文化的要因としては,文化的に共有されたステレオタイプや,不平等を正当化するイデオロギーを受け入れてしまうことがあげられる。

 回避的人種差別主義者は,平等を理想として受け入れているが,しかしマイノリティに対するネガティブな感情も持っているため,マイノリティと接触すると不安を感じる。そのため,マイノリティとの接触を回避しようとする。接触が避けられないと,できるだけ早くその状態を離れようとする。彼らは他人種との接触において不調法な振る舞いをすることを恐れている。

 したがって,回避的人種差別主義者の”回避”は,2種類ある。Gaertner (1973)で示されたような,接触の回避が1つのタイプである。また彼らは,マイノリティについて悪く考えたり,不快な態度を表出したり,差別的に振舞ったりすることも避ける。後者はよい点もあるが,しばしば問題を引き起こす。

 我々の研究は主にアメリカでの人種問題に焦点を当ててきたが,差別が不適切だと考えられている領域であれば,場所や集団を問わず適用できるものである。


 古典的人種差別主義(old-fashioned racism)の持ち主が一貫して差別を示すのに対して,回避的人種差別主義者は,時に平等に,時に差別的に振舞うだろう。彼らは,社会的規範が明瞭なとき――何が差別的行動で,望ましくないものなのかが明らかなとき――には,差別をしないだろう。しかし社会的規範が不明瞭なときや,人種以外の理由で差別を正当化できるような場合には,彼らも差別をするだろう。現代の人種偏見が,露骨にではなく,より微妙な形で表出されるという基本的命題は,様々な状況で実証された (see Dovidio & Gaertner, 1998, 2004; Gaertner & Dovidio, 1986)。


 初期の研究 (Gaertner & Dovidio, 1977) を挙げる。この実験のシナリオは,60年代半ばに起こった,女性が刺殺されるのを38人もが目撃しながら,誰も助けようとしなかったという事件に着想を得たものであった。責任の分散(see Darley & Latan´e, 1968)はこの事件を説明する要因の一つだろう。目撃者が,自分が事件の唯一の目撃者だと思っている場合には,彼/彼女は責任を強く感じ,助けに入りやすいだろう。しかし,他にも目撃者がいると思っている場合,ことに誰かが助けるだろうと思っていたり,既に何かしただろうと思っている場合には,行動に移る可能性は低くなるだろう(本ブログ”助けてください,誰か助けてください!”も参照)
 我々の実験では,白人の被験者が,黒人もしくは白人のサクラが危険にさらされる場面を目撃するように設定した。ある被験者は,自分が唯一の目撃者であると信じるように誘導された。残りの被験者は,他にも目撃者がいると信じるように誘導された。
 回避的偏見理論の予測の通り,自分が唯一の目撃者であると信じている場合には,被験者は,高い確率(85%強)で,そして対象の人種に関わらず,助けようとした。一方,目撃者が複数であると信じていたとき――人種以外にも自分が助けない理由をつけられるとき――には,対象が黒人である場合(37.5%)には,対象が白人である場合(75%)よりも,助けようとしないことが多かった。この実験の状況では,差別は相手を傷つけようとしてなされたものではなかった。しかし回避的人種差別主義は,生命に関わる重要な結果をもたらしうることが示された。

 このパラダイムを用いたその後の研究では,白人の黒人に対する差別は,社会的規範が不明瞭であるか弱いとき (Frey & Gaertner, 1986; see also Saucier, Miller, & Doucet, 2005) に起こりやすく,白人の地位が脅かされるときに強いことが示されている (e.g., Dovidio & Gaertner, 1981)。


 また労働統計は,白人と黒人の間に依然経済格差があり,しかも世帯収入などのいくつかの重要な指標で,格差が拡大していることを示している(see Blank, 2001)。回避的人種差別主義は,こうした経済面での不公正の原因の一つであるだろう。たとえばDovidio & Gaertner(2000) では,被験者は黒人もしくは白人の応募者のインタビューの抄録を読み,採用すべきかどうかを判断した。この抄録が示す応募者の質が,とても優れた人材,普通の人材,優れていない人材の3通りに操作された。
 結果は回避的偏見理論の予測する通りであった。応募者の質が明らかに優れているとき,もしくは明らかに優れていないときには,差別は生じなかった。しかし,応募者の質が微妙であるときには,被験者は,応募者が白人であるときの方が,応募者が黒人であるときよりも,採用すべきと判断しやすかった。このパターンは,1989年に実施した実験と1999年に実施した実験とで,変化が見られなかった――自己報告式の尺度で測った,露骨な偏見は弱まっていたにもかかわらず。

 その後の研究(Hodson, Dovidio, & Gaertner, 2002) では,判断にバイアスのかかる被験者ほど,応募者が黒人である場合にはその応募者が苦手な次元に比重を置くことが示された。


 また司法の場面における差別も検討された。法の下では人種の平等が望ましいが,アメリカにおいては,黒人は白人より有罪判決を受けやすく,しかも有罪になった場合には,同様の犯罪であっても――特に被害者が白人の場合には――白人よりも重い罰を受けるという証拠がある(see Sidanius, Levin, & Pratto, 1998)。
 露骨な人種差別は予備尋問などによって検出することができるため,問題となるのは回避的人種差別主義であろう。例えば証拠の重み付けによって,差別はなされうる(Hodson et al., 2002)。

 Hodson, Hooper, Dovidio, & Gaertner(2005)では,イギリスの白人被験者が,模擬裁判に参加した。この裁判では,黒人もしくは白人の被告が有罪である証拠としてDNA鑑定の結果が提出された後,裁判官がその証拠能力に問題があるとし,これを証拠として用いてはならないと結論付けた。このとき陪審員である被験者は,被告が黒人である場合の方が,被告は有罪であり,より重い刑を下すべきであり,再犯する確率が高く,更正の見込みが薄いと判断しやすかった。被告が白人である場合には,無効な証拠の割引は上手くなされていた。しかし,被告が黒人である場合には,無効な証拠の割引はなされず,リバウンド――証拠が有効である場合よりかえって有罪と判断しやすくなる――効果が示された。


 このように様々なパラダイムで,回避的人種差別主義が様々な判断に影響することが示された。問題は,自己報告によって得られた偏見が行動を一貫して予測しないこと――誰が回避的人種差別主義者なのかを判別できないこと――である。古典的人種差別主義者ないし支配的人種差別主義者は容易にそれと分かる。しかし,人種差別を表明しない人は,真に偏見を抱かない人かもしれないし,回避的人種差別主義者かもしれない。
 
 顕在的過程と潜在的過程 (Devine, 1989; Greenwald & Banaji, 1995)とを区別することは,この議論に有益である。顕在的態度・ステレオタイプは,意識的に処理され,通例の自己報告式の方法で測定可能である。これに対して潜在的態度・ステレオタイプは,対象が存在するときに自動的に活性化され,通常無意識的に,無意図的に働く。これは,反応時間や,記憶のバイアスや,生理指標(皮膚電気反射[GSR:いわゆる嘘発見器]など)で測定することができる。
 ある刺激が提示されると関連する概念の処理が促進される(医者―看護士など)が,人種についても同じことが言える (e.g., Dovidio, Evans, & Tyler, 1986; Fazio, Jackson, Dunton, & Williams, 1995; Gaertner & McLaughlin, Gaertner and Dovidio, 1983)。例えばDovidio, Kawakami, Johnson, Johnson, & Howard(1997)は,典型的な黒人と白人の顔画像(shematic faces)を白人の被験者に,閾下で(subliminally:この場合には意識できないぐらい短い時間という意味)提示した。ポジティブな単語に対する反応時間は予め白人が提示された場合のほうが短かったのに対して,ネガティブな単語に対する反応時間は予め黒人が提示された場合のほうが短かった(本ブログ”なぜ関東大震災で朝鮮人が略奪に奔ったと誤解されてしまったのか”も参照。ちなみに”在日朝鮮人””日本人”という単語を使っても同じ効果が出ます;髙[2008]) 。一般に,潜在的な態度と顕在的な態度の相関は高くない――メタ分析によれば.24程度である (Dovidio, Kawakami, & Beach, 2001)。

 回避的人種差別主義者は,この潜在的偏見に気づいておらず,したがってその行動への影響にも気づいていないだろう。その結果潜在的態度と顕在的態度は,異なる条件下で,異なる様式で行動に作用すると考えられる (Dovidio, Kawakami, & Gaertner, 2002; Dovidio et al., 1997; Fazio et al., 1995).。顕在的な態度は,行動のコストとベネフィットを考える機会と動機が十分にある場合の行動に影響する。これに対して潜在的な態度は,モニタリングしたり制御したりすることが難しい行動(非言語的な行動など:see McConnell & Leibold, 2001) や,一見態度を暴露するように見えず,したがって制御しようと思っていない行動に,影響する。例えばDovidio et al.(1997)では,潜在的偏見が高いほど,不安(まばたきの頻度)や忌避感情(視線を合わせない)を示す指標が高かった。これに対して顕在的偏見が高いほど,言語的な評価のような意図的な指標が高かった。したがって回避的人種差別主義者――顕在的には偏見は低いが潜在的には高い者――は,黒人との接触において矛盾するメッセージを送ることになる。これに対して黒人が,不安,用心,不信を抱いたとしても不思議ではない。

  Dovidio, Gaertner, Kawakami, and Hodson (2002)では,白人被験者の顕在的偏見と潜在的偏見が事前に測られ,その後被験者は,黒人もしくは白人と,会話を行った。Dovidio et al.(1997)同様のデータに加えて,白人被験者の行動がどのぐらい友好的だったかを,白人被験者自身と会話相手の黒人が評価した。白人被験者の自己評価は,顕在的態度およびその結果生じる言語的行動と相関していた――潜在的態度とその結果生じる行動は,自分でもアクセス困難なため,評価を左右しなかった。しかし相手の黒人の評価は,言語的行動ではなく非言語的行動によって決まっていた。つまり,白人の側は自分は差別的に振舞っていないと感じているにも関わらず,黒人の側は差別に気づいているという状況,そしてお互いが異なる経験をしていることに気づいていない状況が,存在するのである。

 この行き違いは,黒人と白人が協力しなければならない場面で,悪影響をもたらすだろうか?Dovidio et al. (2002)では,古典的人種差別主義者(顕在的偏見が高い),回避的人種差別主義者(顕在的偏見は低いが潜在的偏見は示す),低偏見者(両方低い)の白人が,黒人被験者とペアになって課題に取り組んだ。
 白人被験者の自分の行動の評価は,顕在的な態度と相関していた。これに対して黒人被験者は,潜在的偏見も低い白人被験者のみを,他の2群よりも好意的に振舞っていると評価した。3つの群の中で,回避的人種差別主義者の白人は,信用できるという評価を最も受けにくかった。
 さらに,低偏見者の白人を含むペアは,最も早く課題をクリアすることができた。古典的人種差別主義者を含むペアがそれに続いた。回避的人種差別主義者を含むペアは,最も成績が悪かった。黒人はマイノリティで,その成績は他の一緒に仕事をする白人に依存することも多いのだが,白人が露骨な偏見を抱いていない場合でさえ,隠れた偏見がその成績を阻害することがあるのである。


 以上,様々な母集団やパラダイムで示されたように,回避的人種差別主義はとらえにくく無意図的であるが,古典的人種差別主義と同様有害なものである。本論文の後半では,こうしたバイアスを低減するための方略についてレビューする。



 人種偏見を低減するためには,どういう方法が有効だろう?人種偏見が悪であると説くことは有効な方法ではないだろう――回避的人種差別主義者は,既に人種の平等という理想に同意しているのだから。
 ここで一つの可能性を考えてみる。回避的人種差別主義者は,黒人そのものにネガティブに振舞っているのではなく,内集団(自分が所属する集団)と外集団(自分が所属しない集団)とに異なる振る舞いをしているという可能性である (Gaertner et al., 1997)。

 社会的アイデンティティ理論(Tajfel & Turner, 1979)および社会的カテゴリ理論(Turner, 1985)に基づく研究は,単に集団に分割するだけで,内集団に有利な(認知,感情,行動上の)バイアスが生じることを示してきた――社会的カテゴリ化の重要性に関しては,個人化(individuation: Wilder, 1981) や個別的交流(Brewer & Miller, 1984)により集団間の境界が不明瞭になると,バイアスが低減されるだろうと考えられている(cf., Brown & Hewstone, 2005)。

 この理論で重要なのは,”自分の評価は不変ではなく,内集団の成員性と結びついている”(Turner, 1985, p. 60)ということだ。このことからBrewer(1979)は,集団間バイアスの本質は外集団にネガティブに振舞うことではなく内集団にポジティブに振舞うことであると考え,集団を形成したときに生じる外集団差別だけでなく内集団びいきに注意を向けた(Brewer, 1979)。Allport(1954)もまた,人種間の葛藤において,人類という共通の成員性を意識することの有用性を認識していた。我々の共有アイデンティティモデル(Common Ingroup Identity Model)は,2つの集団をばらばらの個人の集まりに再構成する(脱カテゴリ化)のではなく,より上位の共有の成員性がより強く意識される(再カテゴリ化)ことで,認知的・動機的に肯定的な振る舞いがもたらされるとするものである。
 

 最初の実験 (Gaertner, Mann, Murrell, & Dovidio, 1989)で,我々は,大学生の被験者を6人ずつ招き,3人グループを2つ作り,自分達を1.一つの大きなグループと考えるよう(単一グループ条件)に,2.二つのグループと考えるよう(二グループ条件)に,3.個人の集まりと考えるよう(個人条件)に,教示した。これに伴って,座席(グループに関わらず混合/グループ別/バラバラ),ユニフォーム(全員一緒/グループ別/バラバラ),被験者間の協力関係,呼び名(全体のグループ名/2つのグループ名/個人のニックネーム)がシステマティックに変更された――事後に行った質問紙はこの操作が上手くいっていたことを示している。予測されたとおり,単一グループ条件と個人条件では,二グループ条件よりも好ましさ及び他の評価次元におけるバイアスが小さかった。さらに,単一グループ条件では外集団の評価がよりポジティブになることでバイアスが低減していたのに対して,個人条件では内集団の評価がポジティブでなくなることでバイアスが低減していた。

 実験室外では,どのような条件が上位のアイデンティティの導入を促進するだろうか?接触仮説(Allport, 1954)は,集団間の関係が協力的で (see Sherif, Harvey, White, Hood, & Sherif, 1961;有名なサマーキャンプ実験),地位が対等で,自己開示の機会があり,制度的に支持されていることが重要であると考えていた。これらの条件が満たされたときに,上位の成員性が導入されるというのは合理的に思われた――そして共有アイデンティティモデルが発案された。

 共有アイデンティティモデルは,再カテゴリ化の原因と結果,そしてその過程を明らかにしてきた (see Gaertner & Dovidio, 2000; Gaertner, Dovidio, Anastasio, Bachman, & Rust, 1993)。共有アイデンティティは,既存の上位の成員性(みんなおんなじ学校の生徒じゃないか!)や共有されている要因(共通の目標など)を際立たせることによっても,達成されるだろう。


 我々が当初 (Gaertner et al., 1989; see also Gaertner & Dovidio, 2000)考えていたように,共有アイデンティティの達成には,下位のグループのアイデンティティが消失することは必要ない。アイデンティティや文化的価値が成員の機能(?functioning)において重要なとき,高い地位と結びついているとき,容易に目に見えるときなど,アイデンティティを単に無視することが難しい場合は多々ある。しかし,上位のアイデンティティを導入することで,”サブグループ”間の関係は好転しうる。さらに,上位のアイデンティティが導入されている間サブグループの関係が顕著に保たれていることは,直接接触した個人だけでなくサブグループ全体に接触の効果が波及することを後押ししうる。
 

 2つめの実験(Gaertner, Mann, Dovidio, Murrell, & Pomare, 1990)は,協力――接触仮説が挙げた接触の成功の条件の一つ――が,少なくとも部分的には,共有アイデンティティの効果によるものであることを検証した。上述の実験と同様に,2つの3人グループが設けられ,単一グループ条件と二グループ条件が設けられた。またサブグループ間の協力がある条件と無い条件が設けられた。
 二グループ条件では,協力条件で,非協力条件に比べて,6人を一つのグループのように感じる程度が増し,評価のバイアスが低減していた。これは,外集団に対する評価が向上することによるものであった。
 
 これに加えて,3つの調査が行われた。多民族混合高校(Gaertner, Rust, Dovidio, Bachman, & Anastasio, 1996),企業合併が行われた銀行の管理職(Bachman, 1993),ステップ・ファミリー(再婚などで統合された家族)をもつ大学生 (Banker & Gaertner, 1998)についてである。これらの調査はいずれも,接触仮説が提示した条件は,サブグループをより包括的なグループとして認知させることによって,バイアスを低減させることを示した。またステップファミリーについての縦断的調査(継時的調査)は,因果関係が我々の仮定した向きであることを示している。


 共有アイデンティティが他人種への肯定的な反応を増大させることを明らかにするために,さらに2つの実験を行った。実験室実験(Nier, Gaertner, Dovidio, Banker, & Ward, 2001, Study 1)において,白人の被験者は黒人もしくは白人のサクラと一緒に作業を行った。このとき,個人として認知するように誘導された被験者(個人条件)と,同じチームのメンバーとして認知するように誘導された被験者(チーム条件)がいた。白人のサクラに対する評価は,個人条件でもチーム条件でもほぼ等しかったが,黒人のサクラに対する評価は,チーム条件の方が個人条件よりも高かった。

 フィールド実験(Nier et al., 2001, Study 2) は, Delaware大学のフットボール場で,州立Westchester大学との試合に先立って行われた。黒人もしくは白人の男女の実験者が,自分と同じ性別のファンに近づき,食べ物の好みについての調査に協力してくれないか依頼した。このとき各々の実験者は,いずれかの大学のウェアを着ており,自分の着ているウェアと同じ/違う大学に所属していることを示す服を着ているファンを選んで声をかけることができた――つまり大学というアイデンティティが顕在化される状況であった。
 白人のファンは(黒人のファンは数が足りなかったため分析できなかった),黒人のインタビュアーが同じ大学に所属している(ように見えた)とき,別の大学に所属している(ように見えた)ときに比べて,高い確率で依頼に応じた。しかしインタビュアーが白人の場合には,所属している(ように見える)大学に関わらず,依頼に応じる確率は等しかった。
 
 これらの全ての研究が示しているのは,包括的なアイデンティティを共有するとき,外集団の成員はよりポジティブな扱いを受けるということである。
 

 近年の研究によると,ネガティブな思考,感情,行動などを抑制しようと試みたとき,それが一時的には成功しても,抑制しようという意図が解除されると,リバウンド――むしろ最初よりネガティブにバイアスがかかること――が生じることが示されている。回避的人種差別主義者はネガティブな振る舞いを避けようと動機付けられており,まさにこのリバウンドを起こしやすいと考えられる。しかし共有アイデンティティによるバイアスの低減は,ネガティブな振る舞いを避けるのではなく,ポジティブに振舞うように動機付けるため,リバウンドを免れうる。

 例えば,Dovidio, Gaertner, & Kawakami(1998)で,白人の被験者は,白人もしくは黒人のサクラと相互作用するように求められた。このとき被験者は,失礼(wrongdoing)を避けるようにお願いされるか(回避条件),他人に正しく振舞うように(behave correctly)教示されるか(correct条件),サクラと被験者はチームメイトであると教示されるか(仲間条件),ライバルチームであると教示されるか(ライバル条件),何も教示されなかった(教示無し条件)。この前後に,ネガティブな思考のアクセシビリティが,ストループ課題(*)を用いて測定された。リバウンド効果は,ネガティブ後の反応時間とポジティブ語の反応時間の差分が,相互作用後に大きくなることで検出された(注:他の研究では,こうしたリバウンドが実際に行動や他者への評価に反映されることが示されている;e.g., Macrae et al., 1994)
 サクラが白人の時には,操作はリバウンド量(=0)に影響しなかった。サクラが黒人のとき,回避条件と教示無し条件では,correct条件と仲間条件に比べてリバウンドが生じていた――後者ではむしろポジティブな語のアクセシビリティが高まっていた。
 
(*)ストループ課題
 左側の文字の方が右側の文字よりも読みやすい(反応時間が短い)というような現象が生じる。認知要素間の競合,認知要素の自動的な活性化の程度を反映していると考えられる

Accipiter-ストループ


 しかし共有アイデンティティの導入は,現実的な方略なのであろうか?次の研究は,この問いに答えるためのものである。

 
 Green Circle小学校差別撤廃プログラムは,現在National Conference of Communityと北デラウェア司法局により運営されており,実際的にも理論的にも,共有アイデンティティモデルと整合するものである。Green Circleプログラムの第一の前提は,子どもが別のグループに属する人々を概念的に自分達の思いやりと共有の環の中に入れる手伝いをすることは,彼らが共有の人間性を理解し,またその差異に敬意を払うことの助けになるということだ。

 このプログラムでは,指導員が,各教室を40分ずつ,4週間の間に4度訪れた。指導員はフェルトの板に書かれた小さな緑の円を子どもに見せる。この緑の円を見たときには,多くの人々について考えてください;あなたの大事な人のこと,あなたを大事に思ってくれている人のことを”。線棒画が加えられ,それが子ども自身を表していることが説明される。指導員は,”人にはそれぞれ,自分の円に誰を入れるか,人々をどう扱うか,自分の円をどこまで大きくするかを決める大変な仕事があります”と続け,子どもたちに,その円を拡張する様々な課題を行わせる。そして指導員は指摘する,”我々は一つの家族――人類に属しています”

 共有アイデンティティ理論と同じく,Green Circleプログラムにおいても,共有の人類性を認識することが,他者へのポジティブな評価を促進すると考えられている。
 このプログラムとの協力は,共有アイデンティティモデルの検証と,プログラムの成果の評価を可能にした。性別,人種,体重が自分と同じか違う児童を,遊び友達にしたいと思う程度が測定された。よく統合された学級の1,2年生の児童も,Green Circleプログラムを受けない場合には,違う人種よりも同じ人種の児童を好んだ。しかしGreen Circleプログラムに参加した児童は,参加しなかった統制群の児童に比べ,提示された児童のうち人種,性別,体重が異なる児童を,一番一緒に遊びたい友達として挙げる確率が高かった。

 Green Circleプログラムの成功は,共有アイデンティティの確立が,現実的な方略であることを示している。この方略は子どもの友達づくりにおいても,そして大学生の自己開示や援助行動においても (see also Dovidio et al., 1997) ,行動を改善しうる。


 
 以上,回避的偏見理論と,共有アイデンティティモデルに基づく研究をレビューした。間接的な証拠に過ぎないものもあるし,一貫していない場合もある。例えば,全体を単一の集団と考えることは一貫して集団間関係を好転させたが,サブグループを維持しながら上位のグループを導入することは,ときにポジティブな効果を,ときにネガティブな効果を生んだ(e.g., Gaertner et al., 1996)。またマジョリティは全体を単一の集団と考えることを好んだのに対して,マイノリティには,サブグループが維持されている方が効果的だった(Dovidio, Kawakami, & Gaertner, 2000)。これらは,集団関係をより包括的に理解する手がかりになるだろう (e.g., Hornsey & Hogg, 2000; Mummendey & Wenzel, 1999)。
 たとえば自尊心のソシオメーター理論は,自尊心は自分が社会的に排除されていないかをモニターするための警報機として作用すると考えている。我々は,二重アイデンティティ――上位アイデンティティとサブグループのアイデンティティ――の表象も,同じように集団の排除もしくは受容を反映すると考えている。
 

Accipiter-twitthis