週1回だとか大口を叩きながら初回から1か月以上経ってしまった。実は指を怪我しているのだが、薬指なのでさほどの言い訳にはできない。
2週間を過ぎてから、あれもこれもと考えているうちに内容も増していって、思ったよりもボリュームがでてしまったので、月1の更新に妥協してしまった次第である。毎月
中旬が目安ということで。


それでは、今月分です。あんまり面白くないです。



「大学生に主体的な学びを」

最近頻繁に見かける新聞の小見出しである。

文部科学省の中教審なんかが、よく大学教育の現状なんかについて会議をしているみたいだが、この問題についての専門家を挙げるとした時彼らと肩を並べられるのが、私を含める現役の大学生である。よってこの場では勝手に大学生の代表を務めさせていただきたい。


私はかねてから志望していた法学部の政治学科に進学したのだが、それはやはり政治への興味というものがあったからだ。

とは言ってもそれは比較的という話であって、なにか特別な目的というものがあったかというとそうではない。それでも時々、周りの政治への無関心には驚かされることがあり、やはりこの問題に関しては一考してみる必要性があるだろう。


 なぜこのような問題が生じているのか。結論から述べてしまうと、多くの大学生は自ら強く望んで大学に進んでいるわけではないということである。周りが当たり前のように進学する風潮がそうさせているのだ。こんなことを言うと頭の古い人間は「なんて贅沢なことを」と憤ることだろうが、これに至っては学生に問われる責任というものはないだろう。

学生以上に親、社会が大学への進学を望んでいるのだ。
ここで一度立ち止まって、それでは本来大学に行くべき人間とはどういうものなのかと考えてみるが、これがなかなか難しい。まず、学者や医者、法律家などになりたいという明確な目的のある者は真っ先に該当するだろう。しかし私はそのような人間を多くは知らない。明確な目的はなくとも、その分野の勉強を必死に頑張りたいと思う人間が該当するのも大方文句はないであろうが、私自身がそれに当てはまるかは微妙なところであるとお茶を濁したい。少なくとも大学の講義を周りで受けている学生に目をやると、該当しない人間が大半であるように思える。
困ってしまった。ハードルが高いのか分からないが、このままでは大学に行ける人間が少なすぎる。これでは、誰よりも何よりも大学側が困ってしまう。


東洋経済新報社の調べによると私立大学の収益の約8割が学生からの納付金となっている。これは平均値なので、私たちが良く知っているような学生数が1万を超えるマンモス大学では、おそらくもっと高い割合を学生が担っているだろう。逆に私たちが名前を聞いたことのないような大学はもれなく定員割れしているわけで、収益の内に国からの補助金が担う割合が高い。
ここで納得のいかない人が出てくることだろう。なぜそんな大学を国が支える必要があるのか。
一つにはお役所の都合である。彼らは多くの方面で影響力を持っているが、それが失われるのを異常に恐れるきらいがある。よく天下りだとかが世間の批判を集めているが、その受け入れ先のキープのためでもある。私は天下り自体をそこまで問題視しようと思わないが、この構造が歪みを生み出しているのは非常に問題だと思う。
もう一つには、これがメインなのだが、学者の居場所という面である。今まで志高き多くの学生たちが、目を輝かせながら専門分野を学んできた。そして夢を叶えて晴れて学者となった彼らの行き着く先は、たいていの場合大学である。彼らはそこで順調にいけば教授となり、研究を続けながら教鞭を執る。一般の目からは誤解されがちだが、彼らの本職は教えることではない。書くことである。研究内容を論文や本に書いて、その筋から一定の評価を得ることが彼らの仕事であり、彼らの評価は多くの場合それのみによって決定するのだ。
こう言ってしまったら語弊があるかもしれないが、彼らは学生のために仕事をしているわけではないのである。テレビなどで何か社会問題について触れる際に、有名な学者が頻繁に専門家としてコメントする姿が見られるが、彼らは例外なくどこぞの大学の教授であるとの肩書きが付されている。ここで気づくべきは、彼らのような一流の学者が必ずしも優秀な大学の教授ではないということである。

これで合点がいく。「大学生に主体的な学びを」なんていう文句は、さも大学が学生のためにあるような言い方であるが、実際にはそんなことはないのである。もっともらしい言い方であるが、これで学生に主体的な学びとやらを求めるのはいささか疑問が残る。

大学に収監された学生はどのようなものか。授業に出ずに試験前に慌てて資料を集める者、授業に出るはいいが、ただ座っているだけの者、後ろの方に陣取って仲間内で喋りながら必要最低限の情報と資料だけ攫っていく実に迷惑な者。ここまではあらかた予想はつくだろう。
もっとも憐れむべきは、これは大半は女学生なのだが、全く興味のないであろう授業に毎回出席し、教授の話を熱心にいつまでもメモする姿である。私なんかは不思議に思ってしまう。焦ってしまうくらいである。この教授の今話した内容のいったいどこをメモすればよかったのか。レジュメの内容と差異はないように感じたのだが……もしもそのメモが、教授の話した内容をもとにした自分なりの補足や考察であったりしたならば、私は腹を切らなくてはならないが、もしそうなら彼女たちは主体的な学びをしていることになってしまう。


 今の話だけをもとにして言うのではないが、女とは自分のためになら何でもできてしまう生き物である。これが私が大学で主体的に学べたであろう数少ない真理の一つである。





大学二年生になり、今まで幾度となくブログを作成しようと考えていたが、なかなか最後の一歩が踏み出せずにいた。

私を思い留まらせた要因は大きく以下の三つにある。


1.一人称の表記の仕方

 これは今でも迷う。「私」では気取っていて気持ち悪く感じるし、「僕」ではなんだか小学生の作文のような感じがするし、「俺」ではどことなくかっこつけて知的さを漂わせたい時にその目的を邪魔してしまう。ネタに走ってしまうと、真面目なことをしたり顔で書いても説得力が欠けてしまいそうだ。結論としてはもうお目にかかっている「私」にしてみたのだが、いつでもごまかしが効くようにユーモラスな文章を目指したいものである。


2.継続性

 誰でも考えることだと思うが、始める以上は多少こだわりたかった。自分自身、定期的に更新されないようなブログからは自然に目を向けなくなってしまっているからだ。目標としては週1回を目指すが、昔某サイトで使った「増刊号」なる反則を使うかもしれない。とりあえずは一か月を目安に頑張りたい。


3.冷静な自分

 これが最大の山場であった。一時の感情の高まりで書いた文章は、冷静な自分から見るとあまりに稚拙で、まさに身も凍る思いである。ここにきてタイピングのスピードがみるみる落ちてしまうほどこの壁は高かった。


最後に挙げた3つ目の要因に抗ってこの記事を書くに至ったのは、今感じることを文章に起こすのが自分にとってプラスになると考えたからであり、近い将来の自分にとっても後悔の度合いを超える財産になるだろうと結論づけたからである。


先述の内容から大方の予想はつくだろうが、今後の記事の内容はおそらく見てて不快な人も出てくることと思う。

ただブログを始めるというだけでここまでウジウジと考える男の書く内容が、波乱万丈に満ちた活力あるものであるはずがない。


個人的には少なくとも「天声人語」を上まわる洞察力による、大学生版の社説のようなものを目指したい。

「天声人語」は新聞に載っているにも関わらず「どこで聞いたか」などと、取材によらない記憶に頼った内容で世の中を評しており、大学生の私が書く文章と比較するのにちょうどいい対象になってくれそうである。

社説というよりはコラムのほうが適切かもしれない。