※久しぶりの毒というか愚痴


飲み会の席で同僚の子が、「あまり高い旅館は敷居が高くてー」と言ったとき。

私のとなりに座っていたおばさまが、「敷居が高いの本来の使い方は違うのよ」とすかさず訂正しました。


それを聞いて私は、うっせー。


と、思いました。


リアルにもネットにも、言葉の使い方に異様に拘る人っていますよね。


「敷居が高い」という言葉が本来「不義理を働いて家等に行きにくい」という意味なのは私も知っていましたが、今や多くの方が「上品や高価で入りにくい」という意味で使っていますよね。


前に私自身もこのブログで「的を射る」のことを「的を得る」と表現した際に指摘をされたことがあるんですけど…。

正直大きなお世話だなぁと思うことがあります。


多くの人が間違えて使っている言葉の意味は、時代と共に変わっていきます。
実際最近は「的を得る」を誤用としない辞書も増えてきていますし、「敷居が高い」もそのうち「値段が高くて…」の方の意味も正しいとされるようになるのではないかなぁ。


私は、言葉は生きものだと思っています。

みんながずっと正しい言葉を使い続けていかなければならないなら、現代でもみんなが平安貴族みたいな話し方をしているはずですよね。
「をかし」とか、「ありけり」とかね。

誤用だってなんだって、変わっていけばいいんですよ。
多くの人がその間違えを受け入れたら言葉の意味が変わるし、逆に多くの人に受け入れられない場合は元来の言葉の意味が残る。

そうやって変化していくからこそ、言葉って面白いし美しいのではないでしょうか。


私は、話の流れで意味が伝わるのにそれをわざわざ正しく使わせようとする人は「言葉の本質」を理解していない人だなぁと感じてしまいます。


もちろん「間違った使い方は許せない」と考えて、正しく使いたいと思う人は正しく使ってていいですけどね。
他の人に強要させる必要はないんじゃないでしょうか。

ましてや飲み会の席の談笑や、なんの影響力もない個人のブログでは「あらあらまた間違えてるわー」と心の中でつっこむに留めて大人の余裕をみせてほしいものです。