昨日の夕方から、兵庫県丹波市の柏原日赤病院までお送りするご予約がありました。
タクシーの仕事としてはかなりロングです。
観光気分となり、あらかじめ、近くに何か面白いものはないかな?と探してましたら、ほん近くに《田捨女さん》の誕生地があることが分かりました。
田捨女は1634年、丹波国氷上郡柏原藩(現在の兵庫県丹波市柏原地域、当時の藩主は織田信勝)に、柏原藩の庄屋で代官も務めた田季繁の娘として誕生した。
6歳のとき
雪の朝
二の字二の字の
下駄の跡
という俳句を詠み、周囲にその才を認められる。
後に北村季吟に師事。
1674年(延宝2年)夫が死去したため髪を下ろし妙融と号した。
この頃にはすでに貞門女流六歌仙の1人として著名であった。
その後子供らの独立を見届けた後、京都で俳諧・仏道などの修行を重ねた後、1688年(元禄元年)《播磨国の天徳山龍門寺の傍らに「不徹庵」という庵を構え、貞閑と改名。》その地で後進の指導に当たった。
《1698年に死去し龍門寺に葬られた。龍門寺には現在も捨女の墓がある。》
※龍門寺は現在の姫路市内の網干地区にあります。
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ここまで、画像はネットより拝借。
今回撮影したのはこちら。
追記
全く繋がりのない話ですが、姫路から丹波に行く途中に、西脇市内の黒田庄の町を通ります。
この黒田庄は、黒田官兵衛の出身地ではないかとと話もあります。
「そうかも知れんなあ」と思いますのは、姫市内の御着の地に黒田官兵衛の祖父と母の墓があり、
黒田官兵衛の父のお墓は姫路市内の南、妻鹿にあります。
お墓の納まり方としては、少し不自然なんですね。
夫婦ではなく、祖父と母の墓が御着にあり、父は妻鹿にあるのでしょうか?
一つの場所なら理解も出来ますが.....
御着にある祖父と母のお墓は、本当の夫婦であり、官兵衛が義父の元に養子に入ったのなら、妻鹿の地に義父の墓があるというなら、何となく、理解出来ますね。
因みにこの日妻鹿は「黒田節のモデルとなった母里太兵衛の出身地です。