従兄弟の詩が特選で選ばれた。
地方《痴呆ではない》新聞ではあるが、それは凄いことだと思う。
彼はいつも故郷、家島愛を詩にしている。
その投稿を拝見し、私の心の中にも、多少だが家島愛が残ってることを確認する。
同じく詩人(多分)であった母親の詩を追いかけ、共に故郷を愛す。
言葉にすれば簡単だが、なかなか出来ることではない。
蛇足ではあるが、私の知り合いの方のお姉さんが家島に短歌を教えに行っていた。
私の姉も月一度家島諸島の坊勢島にある天理教に参拝に行っていたら、その方と姫路港の待合所でよく出会ったようだ。
何がきっかけで話が弾んだのかは忘れましたが、その方は従兄弟の母親、故、岩本和枝おばさんを良く存じております。とのことでした。
姉は坊勢島にある天理教に毎月参拝に行ってることを告げると、その方も「私の弟夫婦も良く天理に連れて行ってもらっているそうですよ。」
姉は驚き、「ご縁があるんですね。どの方と行かれているんですか?」と聞くと、「小田さんって方です。」
姉は驚きまくり、
「その小田ってのは私の弟ですわ!ご一緒していたのは松本さん夫婦ですね。」
「あら、ご縁があること☺️」
蛇足その2
その従兄弟に一度だけ天理にお誘いしたことがあります。
「おばちゃんが青春時代に過ごした天理に行ってみいへん?大和の秋は綺麗やで。」
宗教の勧誘ではない。
バスでのドライブ気分で良いと思いました。
そのバスに松本さん夫婦も乗っていたのだが、偶然と言う必然を、後日知ることになる。
何があるかなんて、全く分からず歩んでいるが、実は何通りかの選択コースを選んでいるだけなのかも知れない。
ハズレだと嘆いた道が、後に大当りの道であったりするのだ。
だから人生ってのは面白いのだ。
《令和五年 五月 月次祭祭文》
親里ぢばより、名称の理をお許しいただき、陽気ぐらし世界にお導き下さいます、親神天理王命の御前に天理教飾家分教会会長 小田久一 謹んで申し上げます。
毎月二十六日、おぢばでは世界たすけの思いを込めて月次祭が執り行われ、当教会もぢばの理に習い、本日は事改めて、心明るく陽気に月次祭をつとめさせていただきます。
教祖の年祭活動の意義は陽気ぐらしへの一里塚であり、仕切り直しの時旬でございます。
一人一人がひながたを目標として、誠の心で日々通らせていただくことがおやさまにお喜びいただける道であると悟らせていただきます。
また、五月二十八日には飾東大教会からおぢばがえりをさせていただこうと声をかけていただいておりますので、微力ながらもその声に乗らせていただきないと思います。
コロナ禍に対しても扱い方が変わり、基本的に各自の管理が問われるようになりました。
良き日もあれば、辛い日もある。
どのような中も、しっかり乗り越え、受け止めさせていただき、「ふしから芽が出る」が如く、おやさまがお通り下されたひながたの道を思い起こし、一同と共に心勇んで歩ませていただきます。