従兄弟とおばちゃんの詩集 | ボチボチ曖昧模糊な日々(適当男の感謝、喜び、笑顔)

ボチボチ曖昧模糊な日々(適当男の感謝、喜び、笑顔)

たいした生き方なんぞは出来ておりません。
そんな、適当で雑な男なりに人生観を語ってみようという、ブログです。

最近、人生とは関係なく画像の紹介が増えて来ました。

詩集が送られて来ました。
従兄弟とそのお母さんの作品で、親子のやりとりが蘇ってきます。



そんなおばちゃんが入院し、癌末期の頃に、「東山の教会に参拝したい、久一の天理教の話を聞きたい。」と言い出し、従兄弟からどう思う?と聞かれ、まずは、「病院にお見舞いに行って、状態を見てからにするわ。」と言いました。

執念でしょうか?
ドクターストップもかかることなく、自教会に介護タクシーーで参拝してくれることになりました。



おばちゃん頑張ってヨォ!|ボチボチ曖昧模糊な日々 より抜粋http://s.ameblo.jp/sikiie5429/entry-11962994021.html




先日、従兄弟から携帯に電話がありました。
従兄弟
「久一 突然すまんなあ! 母親が病院に入院してるんやけど、ようわからんが、久一と話がしたい言うて言うてんねん!
チョット会ってやって、話を聞いたってくれへんか!」

「指名ですか....そら、構わんですけど....
とりあえず、今から病院に行きますわ。」

病院に面会に行かしていただき、ぱっと見た瞬間、元気でないことが直ぐにわかりました。


「おばちゃん、久一やでえ( ´ ▽ ` )
どないしたんや? しんどそうやん?」
叔母
「久一か....
あんたとこのお祭りの日はいつや?」

「内とこ? 教会やなあ?
内とこは23日の午後1時から月次祭やけど、それがどないしたん?。」
叔母
「そうか、23日か!あんたの所の教会にお参りに行きたいんや! 」

息も絶え絶えにこのようなことを言われました。


「エーツ! 外出は大丈夫なん?」
叔母
「うん....あんたが言うてる、天理教の話をゆっくりと聞きたいんや。」

そこまで言われますと、さすがに断れません。
何とか夢を叶えてやりたいもんだと思いましたが、病院から勝手に引っ張り出せる状態でもありません。
まず今は健康の快復を願い、祈らせていただくことかと思い、おさづけを取り次がせていただきました。
外出するには、子供達の同意、賛成が必要やと思いましたので、病院を出て、直ぐに従兄弟に電話をし、おばちゃんの思いと、私の思いを伝えました。

従兄弟
「チョット時間が欲しい。
みんなを説得してみるわ。」

これをキッカケにして、兄弟でじっくりと話し合う機会が増えるのも悪くありません。

子供達の総意として、
母親が参拝に行くと言う《目標、生き甲斐》を持ってもらえたら、元気になれるんやないか?
という意見でまとまったと言うことです。

今月に参拝出来たら、更に来年の参拝も願わせていただき、気が付いてみたら、ゆっくりながらも元気になっていた。
そんな展開になれば、なによりです。

後は、少しでも病院内でリハビリをして、23日にドクターストップがかからないことを祈るのみです。



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私は幸せ者です |ボチボチ曖昧模糊な日々より抜粋
http://s.ameblo.jp/sikiie5429/entry-11968466711.html




寝たきりになってしまったおばちゃんが当教会の月次祭に参拝したいと希望され、その方の願いが何とか叶うようにと、集中的におさづけのお取り次ぎに病院まで行かせていただいていました。

最初はおぼろ気だった意識が、ゆるやかながらも、日々追うことに笑顔を見せてくれる回数が増えて来ました。
私もその笑顔を励みとして、おさづけのお取り次ぎに通わせていただきました。

「あんたの顔を見ることが嬉しいんや」
とまで言われ、有頂天になってしまい、人様に祈りを捧げることの嬉しさを、改めて体験させていただきました。

今日は23日に行われます、当教会の月次祭に参拝させていただく為の介護タクシーの手配をさせていただけるまでになりました。
総てが順調過ぎる程に進み、本当に嬉しく思います。

反省すべきこととして、私は心使いが足らず、その場、その場で、おさづけを取り次ぎ、祈らせていただくことが多いのですが、仕切って通わせていただくことは少なく、真実味に欠けていたように思います。

この23日に参拝していただいたことが、その方や家族にとりまして、思い出の一つとなることは悪いことではありませんが、願わくば、この23日を境にして、次の参拝につながりますよう、心を込めて祈らせていただきます。

この道の教えは「つとめ」と「さづけ」でたすかるのだと聞かせていただきます。

小さな教会ではありますが、親神様の御守護に変わりがあるわけではなし。
心大きく勇んで月次祭をつとめさせていただき、祭典修了後には教祖の名代として、おさづけを取り次がせていただきたいと思います。

12月23日、当教会の祭典日、叔母の子供2人が付き添いとして、同行し、介護タクシーにて参拝をさせていただくことが出来ました。
私なりに考えていたのは、如何にして、参拝者全員が心を一つにして、祈りを捧げることが出来るだろうか?ということでした。

天理教の月次祭は、慣例的には、先ず祭儀式が行われ、そこで祈り、感謝の気持ちを奏上し、すわりづとめがあり、十二下りの手踊りの後に、神殿講話、つまり、会長である私から、神様のお話を取り次がせていただくのですが、私としては、おつとめが始まる前に、どうしても参拝者の心を一つにしたかったので、祭儀式の直後に神殿講話をさせていただき、下記の逸話編を拝読させていただきました。

天理教教祖伝逸話編16
【子供が親のために】
http://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/s/article/164865715.html

このお話は「真実の心で願えば叶うのやで!」とお教え下さっていると思うのです。

それぞれの教会という所の成り立ちは、《たすけていただいた人、あるいはたすけていただいたご先祖様の子孫、あるいは、今たすけを願う人達が集まって出来上がってくる》わけです。

その中には見よう見まねで、たすかった理由の深い意味を思案することもなく、たすかった人の一部の行動だけを見て、たすけった理由の勘違いが生まれることがあります。

《自分の生活を切り詰め、困っっている方のために、たすかっていただきたいと、お供え(金)をさせていただく真実の姿に、神様が、その人それぞれの真実を見定めて、たすけを実を与えて下さるのです。》

この、真実の心の使い方が、省略されて、《御供をすればたすかるんやで!》と言われるようになったりしますと、先に申しましたように、《人様にたすかってもらいたいという真実》がどこかに消えてしまい、《人をたすけて、我が身たすかる》という道筋も消えてしまうことになります。

教祖伝の逸話編などを読ませていただきますと、「たすかったお礼はどうしたら良いですか?」との質問に対しては、「自分がたすけていただいた話をすれば良いのやで。」頻繁に述べられています。
つまりは、「喜び、感謝の心を人様に伝播しなさいよ!」と言われているのではないかと思うのです。

天理教では「つとめ」と「さづけ」によってたすかるのやと聞かせていただきます。

《先ずはおつとめによって、心を一つにして皆で祈らせていただきましょう。
おつとめが終われば、直ぐにおさづけの理を取り次がせていただきますからね。》

こうして、座りづとめ、手踊りが始まりました。
手踊りの後半が始まる前に、おばちゃんに疲れが見えて来たような気配を感じましたので、車椅子から、お布団に移動させ、おさづけの理を取り次がせていただきました。

後半の手踊りの最中に、少し変化を感じまして、手踊りを止めて、再びおさづけの理を取り次がせていただきました。
祭典後には家内もおさづけの理を取り次ぎ、娘が覚えたてのマッサージを腰にして、それぞれの真実の思いの中 、食事もわずかながらも食べていただけることとなりました。

介護タクシーが時間通りに来られ、病院へと帰られた後、おばちゃんの長男や次男の方から、「不思議なほどに明るい顔になった!」とお礼のメールやお電話を頂戴いたしました。
更に、「来月、1月23日の祭典日、春の大祭にも、付き添いをつけるので参拝させていたたきたい。」とのお言葉をいただき、私はもう嬉しくてなりません。

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こうして、3月の月次祭まで介護タクシーでご参拝下さいました。
私も週1回位のペースで病院に通わせていただきました。

悲しくも、母の日に亡くなられましたが、葬儀会場で従兄弟から、「ありがとう」といっていただき、励まされたような気持ちです。

力及ばず、心苦しさもありましたが、おばちゃんは精一杯に生きられたんやなと感じました。



合掌