敷地にあがる緩いスロープには、去年の秋に落ちた栗の実が沢山落ちていました。
ずっともう一度見たいと思っていた、祖母の家。
目にしたら、きっと泣くだろうなと思っていました。
でもね。
あまりにも当たり前な顔をして、家が建っていたというか。
まるで何事もなかったように、ただ。
ただ、普通にそこにあったというか。
いつものように『おばあちゃん、来たよ!』って玄関を開けたら。
『よく来たなぁ。遠いところありがとね。疲れてないか? まんま食うか?』と言って、祖母が出てきそうな気がするというか…
震災の時に縁側のサッシ窓が全部外れてしまった以外は、特に外部に損傷が見られず。
放射能は当然、目に見えず。
虫の声も山の木々の葉擦れの音も。
肌で感じる、この空気も何も変わってない。
だからそんな錯覚に陥る。
頭では理解しているのですが、あまりにも変わらない景色に、気持ちと感覚がついてこないというか…。
きっと。家にとっては震災も何も関係なく。
自分がもう、用済みとなり捨てられた事も知らず。
ただ、あるがまま時を重ね。
役目を終えたら、そのまま朽ちていく。
うまく言えないけれど。
そんな事がとても切なく…
でも、玄関を開ければ、室内はこんな状態。
祖母の家は、いわゆる『山の中の一軒家』。
破れた窓から、山の動物達(イノシシ、狐、牛などなど)が自由に出入りし、家じゅうを漁りまくっていました。
震災の頃はちょうど田植えの準備に備え、昨年の稲から苗を育てる為のもみ殻を選定する時期。
もみ殻を選定する業者が来るのに合わせて、家の中にあげていたもみ殻を、ネズミがこんなにしてしまったらしいと叔母が言っていました。
あの時間で止まった時計の回りの壁ですが。
叔母がまだ結婚前。
叔父と付き合っている時に、叔父が突然ふらっとやって来て。
『時間が空いたので、ちょっと片付けますよ』と言って、塗ってくれた壁なのだそうです。
叔母がよく、自慢そうに言っていました。
『おんちゃんは(叔父の事)叔母さんが欲しくて、この壁を塗ったんだよ』
……そんな素敵な思い出があるこの壁も、いずれ朽ちて崩れてしまうのでしょう……
来る度に泊まらせてもらった部屋も、こんな有様。
障子もボロボロ。
『原発再稼働賛成! 反対派は電気を使うな!! さっさとエアコンのない部屋で熱中症で死ねばいい!』と、コメントがあった記事も読みました。
でもね。
叩かれるのを覚悟でいいます。
再稼働した原発が爆発したとしたら。
自分の大切な場所が、こんな状態になる事は分かってますよね?
そんなリスクを覚悟した上でも、尚。
それでも、原発再稼働に賛成なのですね?……と。
この先には、敷地内にあったビニールハウスに続く道でした。
家の周囲には、叔母が一時帰宅で来る度に除草剤をまいてくれているので、かろうじて地面が見える部分があります。
ですが、この先は……。
右手前に写っているのは、廃材利用のDIY車庫だったのですが。
既に崩れて、わずかに屋根の部分が残るのみ。
庭から見えるハウスの骨組みも、山に埋もれるのは時間の問題ですね。
アングルが違うので分かりづらいかもしれませんが。
震災前は、こんな感じに見えていました。
小さい頃。よくかくれんぼをした納屋も、今はこんな状態でしたので、中には入れず。
昔は畑でたばこの葉を栽培していたので、収穫した後、この庭いっぱいにたばこの葉を広げ天日干しをしていました。
子供ながらに、それはもうとても壮観な眺めで。
乾燥した葉はその後、納屋の2階で保管(?)していたので、弟と一緒によく上がり、乾いたたばこの葉をかき分けつつ探検ごっこをした事。
その時に嗅いだ、乾燥して少し鼻にきつい葉の臭いと、かき分ける度に葉がたてるパサパサ・カサカサという音。
そんな事を突然思い出し。
なんだか、随分遠くまできてしまったような。
もう二度と、あの頃には戻れないんだなと。
なんとも言えない気持ちになりました。
祖母の家の物はすべて外気に曝されているので、私が同行する条件は。
祖母の家の物はたとえ石ころ1つでも持ち出さない
…だったので、こうやって見て、写真を撮って。
あくまで脳裏に焼き付けるだけ。
叔母は除草剤をまく為に寄ったので、祖母の家に滞在した時間は30分弱。
『もう行くよ』と言われた時に、これがもう見納めなんだと。
もう一度だけ家を眺めましたが。
家はただ、何事も無かったかのように。
そこにあるだけ。
穏やかな雰囲気で、ただ。
そこに立っているだけ。
あっ。泣きそうと思ったのですが。
叔母に。
泣くなら連れて行かない
と。言われていたので、頑張って耐えました(笑)
車に乗って走りながら、叔母に言われました。
『あんたは関係ないからそうやって感傷に浸れるの。我々はここで生きていかきゃならないんだから。生きるのに必死で、悲しんだり感傷に浸ってる暇はないのよ』
……はい。
その通りです。
私はあくまで第三者。
こちらに帰れば、こうやって住む家もある。
仕事もある。
親も元気だし、実家も何事もなし。
だからこうやって、感傷に浸る余裕もある。
でもね。
思うのです。
福島だけでなく、東北は皆、今は生きるのに必死です。
少しでも早く、復興を。
1日でも早く、安定した暮らしを。
穏やかな以前の日々を取り戻したい。
それは、この前の大雨で川の堤防が決壊した地域もしかり。
他の自然災害が起こした被害をこうむった人々皆の、切なる願いだと思います。
確かに、募金や被災地ボランティアも大事。
そうやって周りが手を差し伸べて、助けてくれるから。
『一人じゃないよ。皆が応援してるよ』と、行動で示してくれるから。
だから被災した方々も皆。
もう一度、頑張ってみよう。
そう思えるんだと。
ですが。
残念ながら、日本人は古来より『熱しやすく冷めやすい』人種であります。
TVニュースやネット記事で『被災地はこんな状況です』と、動きがある間はそれなりに関心があります。
でも。それが無くなると、いつしか忘れ去られていく…。
私も震災以降、福島の親戚との行き来の中でよく感じるのですが。
被災した側が一番怖いのは、本当は。
忘れ去られること
時の流れの中で風化していくこと
別に、ヴィーガン主義なら主義でいいんじゃない?
その代わり
ヴィーガンでなければ人にあらず
ヴィーガンでなければ集団的精神的DVの権利を行使し
ヴィーガンでない人間を
全員強制的にヴィーガン主義者へと洗脳してみせる…
そういう
中国共産党員達が、ウイグル族強制収容所でウイグル族の人達に行っている非人道的精神的殺戮行為とまったく同じ行動をやめて欲しい
それだけなのですが?
現状
ヴィーガン主義の方やTwitter上で『フェミニスト』と呼称されている方達が
インターネットを利用した
相手を傷つける目的で行う誹謗中傷行為(俗称:ネット炎上ゲーム)と
中国共産党員達が、ウイグル族の人達に行っている
かつてのナチスドイツ軍がユダヤ人に行っていた非人道的虐殺行為と丸っきりそっくりな精神的DVによる強制洗脳支配攻撃とが
私達一般市民からしてみると何が違うのか区別が出来ないほど、そっくりにしか見えず
ヴィーガン主義の人々は皆、ナチスドイツ軍の流れを汲む中国共産党員達や韓国人の集団(日本人の中国共産党スパイの集団)としか思えず
とても恐怖を感じているし
このままだと、我々純粋な日本人は全員
あなた達ヴィーガン主義者や、ネット上で『フェミニスト』と呼称される行為を続ける人々によって
粛清され続け、全滅させられてしまうのではないかと感じているくらい
韓国人が、慰安婦問題を騒ぐ時と同じ心的威圧行為をもちいるせいで
心底怯えているのだという事を
いい加減、自覚していただきたいだけです
ではないかなと。
しばしば考える時があります。
生活に余裕がないから、今は募金は出来ない。
忙しくてボランティアなんて行ってる暇はない。
それもアリだと思います。
募金やボランティアは義務ではないのですから。
だけど。『忘れない』という事は誰にでも出来ます。
『忘れない』からこそ、お財布に余裕がある時に偶然街角に出ていた募金に協力出来るかもしれない。
『忘れない』からこそ、色々なタイミングが重なり流れ的にボランティアに行くチャンスが出来るかもしれない。
『忘れない』からこそ、家族や友人となんとなくその地に旅行に行く事になり、現地にお金を落とすことが出来るかもしれない。
『忘れない』からこそ、何気なしに見たTVやネットで被災地のその後を見聞する機会があるかもしれない。
スピリチュアルに興味がある人はあれ?って思いませんか。
原理はね。
『引き寄せの法則』とまったく同じ。
『被災地の事を忘れない』→潜在意識にインプット→無意識にアンテナを張る→必要な情報をキャッチしやすくなるというか、飛び込んできやすくなる
うそ~ん!…って。
きっと皆さん、思ってるでしょう。
引き寄せの法則は自分が幸せになる為のものじゃない。
被災地支援と引き寄せの法則が同じなんて、絶対嘘!!…って。
でも、本当なんですよね(苦笑)
私は引き寄せの法則を使ってる!と、自信がある方は、ぜひ試していただけると分かると思うのですが。
逆に引き寄せの法則が苦手。
論理は分かるけど、幸せになった自分のイメージがうまく湧かないという方は、たまにでいいので『被災地の人はどうしてるかな?』と。
ふと、思い出してみてください。
それを繰り返している内に、多分きっと。
被災地とのリンクというか、ご縁が出来てくるでしょうし。
その時にはきっと。
引き寄せの法則ってこういうカンジなのかぁ…と。
体得しているのではないかなと。
そんなの信じられないからやる気もないし、被災地の事なんて気にしてる暇なんてないわ!
…という方は。
あでぃお~す! ぐっ・ば~い♪
という事で(笑)
とまれ。
話が随分と逸れてしまった気もしますが。
要はですね。
実際に被災された方々は、悲しくても辛くとも。
生きていくのに必死で、泣いている余裕がない事が多いのです。
でも、心の中は辛くて悲しくて。
明日の事を考えると不安でしょうがない。
怖くてしょうがない。
それを周りに分かってもらえない事で、さらに孤独感や孤立感に苛まれる負のループ。
人が人を支え、助け合う。
その為にはまず、相手が抱える悲しみや不安に寄り添う。
一緒に悲しむ。
涙を流す。
そういう形で、相手の気持ちに寄り添う人がいてもいいんじゃないかなと。
そう思ったりもするのですが。
やはり、これは。
第三者の立場での、傲り…なんで…しょうか…ね……




















