私の歴史 | しかまち心療内科のブログ

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精神科の記事は一応専門として書いていますが、政治経済は素人ですので趣味で書いています。

実家は土建屋だった。小さいころからその環境で土方になって会社を大きくするというのが自然な流れになった。いい大学がいいだろうと何となく思い、九州大学の土木を何となく目指すことになった。今考えるとほとんど意味がない。大学の土木では大きな橋を作ったり、どでかい公共工事をこなすためのノウハウを勉強するんじゃないかと思う。うちは超零細企業、そんなの勉強したって使う場面がない。実家を継ぐなら中卒で頑張った方がむしろメリットがあるかもしれない。周りの人からもそういうアドバイスは全くなかった。タイムマシンがあるなら間違えているぞと言いたくなる。成績が少し良かったからなんかいい大学行かないと損するような感覚があった。共通一次が終わるとわりと点数がよかった。これは東京工業大学いけるんじゃないか、などと考えてた。1月下旬、知人が話をしたいという。両親も一緒でなんか料亭みたいなところ行った。その人からなんで土木に行くのかと聞かれた。僕は政治家になりたいからと答えた。このブログ見ればわかるように私はそういう人間なんです。その足掛かりで土建屋をやると言った。その人は私の考えがつかめなかったそうだが、政治家になるなら土建屋より医者の方がいいぞと言われた。そうなのかと思いあっさり方針変更。医学部を受けることにした。2次試験の直前だ。といっても内科外科とか全く興味なし。精神科は面白そうと思った。もっとも医学から離れていたからかもしれない。精神科を学べば人間が分かるようになるかもしれないというのは魅力的だった。これはその通りだったと思う。現在進行形だ。  続く  

 

 

 

父とM先生の死

訃報を聞いた。もう20年ほど会っていない。しかし、一言で僕の人生を変えてしまった人だ。

医師になった当初、僕は精神科医の仕事が分からず揺れていた。薬はどれも似たようなもので、手ごたえを感じない。身体科のように目に見えて改善を感じない。1年目の時に内科に変わろうかなと思い父親に話すと「ばかたれ」と一刀両断にされた。父親には何の迷いもなかった。父親はもともと石屋で石垣を作る職人だった。医者の世界なんて全く知らない。だけど、入ったばかりでやめてしまうことには本能的にダメだという認識があったのだろう。なんの世界も同じだ。これのおかげで精神科は僕のライフワークになった。父親がいなかったら今は内科医だったろうか。ひどく後悔したと思う。

8年目のころはなんとなくやれてる感じも出てきた。大学医局の先輩であるM先生はひょうひょうとしたキャラで悩みがあるんだろうかと思わせるような人柄だった。何事にもこだわらない、後輩の教育など見たことがなかった。ある時精神科医師で6人くらいの飲み会があった。私が一番年下。児童思春期の患者さんに話題が向いたとき、僕は「来たらM 先生(この人はまた別のお医者さん)に紹介しますよ」と言った。これは特別なことではなく児童思春期を生業とする精神科医たちがいて、一般の精神科医は任せる風潮があった。M先生は「はまだくーーん、精神科医は子供ばみらんばだめとよー―。」とおっしゃった。お気楽な態度で医療をやっていたM先生から指導を受けたということで私はかなり動揺した。みんなそうやってるじゃないかと思いつつ、M先生に指摘されたからには、これは精神科医としても最低限の責務ではないかという考えが頭をぐるぐる回った。結果、それ以後は子供も断らない、できる範囲でベストを尽くそうと考えた。次年度は上五島だったのでまさにその環境だった。島に精神科医一人なので紹介はできない。できる範囲で対応した。

医者20年頃、長崎県で各医療機関の対応できる疾患のマップを作ることになった。アルコールとか認知症とか、ですね。うちは田舎でもあり、とりあえずどれでも最初の対応はするように心掛けている。児童思春期も丸つけて出した。あとでマップができてびっくり、児童思春期に対応する医療機関は県北でうちだけだった。軽く手をあげたらだれも手をあげてなかったという感じ。見たくない気持ちは私もわかるのだ。とにかく時間がかかる。薬が大人用ばかりで子供は一律安全性は確認されていないと製薬メーカーは逃げている。しかし苦しんでいる子供は多数いるのだ。

6年ほど前から児童相談所での嘱託医を始めた。医療機関と違うところは子供さん、または親が決して治療を希望していないケースが多い。児相が敵になってしまうケースもある。これは初めての経験だった。

50歳の時と今の自分は違うと思う。さらに言えば1年前と今は違うような気もする。還暦にしてまだ成長しているような気がしている。気のせいかもしれないが。年々子供さんの医療が分かってきているような気がする。

これはM先生の一言から始まったことだ。この25年間M先生の言葉は僕の頭の中に残っている。M先生は亡くなってしまった。でも先生の言葉はいまだに僕の頭の中で鳴り響いている。ありがとうございました。

 

私らのころと違い、今は初期研修で2年間ローテーションする。後期も大学でなく研修医は総合病院での研修を好む。大学は学生への対応、研究その他雑用が多い。総合病院などに行けば臨床経験を多数積める。ところが、それがそうでもない。よそで研修すると経験は詰めるけど、先輩後輩がない一匹狼になる。大学は雑用あるけど先輩後輩の関係は死ぬまで続く。このヒューマンネットワークが大事なのだ。本を読めば臨床ができるというものでもない。大学で研修しない医師は対患者の人間対人間の関係作りが弱い。M先生も後輩だから一言声かけたんだろう。死ぬまで勉強です。

たった一言で人生を変えてしまう言葉がある。

 

 

 

膵臓

幼少期私はよく下痢が止まらなかったらしい。小学校に上がると毎朝うんこが出ないということに気づいた。だいたい3日おきである。そうなるといつうんこが出るかわからないということになる。当然学校でもありなのだ。小学校の時学校でうんこをするとすごくからかわれた。極力こらえたがそうもいかない。女子は自由にうんこができるからいいなあと思っていた。中学校になるとやや恥ずかしさが薄れた。高校になると悪い奴らが「うんこしてるぞ」と喜び個室の上から覗き込むようになった。これでも進学校だ。大学になると自由になり、授業中でも教室から出てうんこができるようになった。授業中はトイレに誰もいないので至福のひと時だった。

40代のころイワシの刺身など食べるとその場で下痢するようになった。おかしいなと思ってたら大好きなインド料理を食べたら下痢嘔吐腹痛とこれまで経験したことのない症状が出た。翌日は動けず、2日目も寝ていた。治らない。3日目に労災病院に連れて行ってもらった。膵臓がはれており、腹腔内がドロドロになってた。急性膵炎だ。帰せませんと言われ入院になった。1週間で体重が70㎏から53㎏になった。高校の時が57㎏でいつかその体重になりたいと思っていた。なったものの全くうれしくなかった。体がふらふらして風が吹いてもよろけそうな感じだった。体重が増えるとしっかりなっていった。インド料理はその後10年以上食べていない。マイルドなバターチキンカレーでも、少し食べると下すのだ。楽しみを一つ失った。

1年間酒は飲んでおらずアルコール性ではないだろうと言われた。自分ではストレス性かと自己診断している。精神科の仕事はほとんど悩むことなくできている。そのころのストレスは歌でした。自分は下手なんだけど、ずいぶんとレベルの高いチームに入れてもらって、すごく親切にされていたんです。合唱は人のを聞くよりその中に入って聞く方が断然いい。素晴らしい時間を過ごしていました。でも私音痴でついていくのがしんどい。好きなんだけどつらい日々でした。かなり無理したんだと思う。

自分の弱点は膵臓なんだということが分かった。うんこの問題はおそらく、僕は腸の消化力が弱いんだと思った。食物を消化するのに3日かかるんだろう。毎日出る時は下痢だ。

 

 

 

小学1年の時2つの保育園が合わさって一クラス30人くらいになった。その中に一番人気の女子がいた。誰が始めたのかその子の前に男子2人が連れてこられ、どっちの子が好き?という儀式が延々と繰り返されるのが日課となった。その子は特に悪びれず明確にこっち、と指をさした。それを見て周りの連中は面白がるのだ。2人の組み合わせを延々と繰り返せば自然と序列が決まってくる。男子が15人とすれば1位から15位までが決定する。私はケツから2番目だった。その子の前に引きずり出されるのはさすがに重いものがあった。何回も繰り返してたので時に下克上がある。しかし私は不動でした。もう少し大きくなれば気にしたかもしれないけど、当時は異性もあまり気にしていなかったようで淡々と受け入れていた。重いんですが。

10数年後その子とあったときにああいうことやってたよねと話すると、当の本人は全く覚えていなかった。

子供は悪意なく残酷ですね。(その子ではなく周りの男子)

その子はクリスチャンで、クリスチャンでないと結婚できないんだぞといううわさが飛び交った。私は仏教で、この時はなんか悲しい気がした。なんの目もないのにですね。(実際はクリスチャンの家に嫁入りする人はクリスチャンに改宗する人が多いでしょうか。クリスチャンの女性は他宗教の家に嫁入りしても別に問題ないような感じです)