清原和博 | 綺麗工房・美しくなう!

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西武時代
清原本人は巨人入りを熱望していたが、巨人は早稲田大学進学を表明していた桑田を強行1位指名。当の清原は南海、日本ハム、中日、近鉄、西武、阪神の6球団から1位指名を受け、抽選の結果西武が交渉権を獲得。ドラフト会議直後の記者会見では、失意で涙を溜めた姿が放送された。 後に自宅で泣く清原を見て、母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい。男なら見返してやりなさい。泣いてる暇なんてないはずやで!」と言い聞かせ、プロに入り巨人を見返してやるとの思いを強くした。

清原はそのまま西武に入団。背番号3が与えられた。ルーキーイヤーの1986年、開幕2戦目に守備固めで登場すると、第1打席の四球の後第2打席にはプロ初安打となる初本塁打を打つ。その後も打ち続け、高卒新人では史上最多の31本の本塁打を放って新人本塁打記録の最多タイを記録。打率.304及び打点78も同じく高卒新人の歴代最高記録で、新人王に選出された。その年の日本シリーズには8試合すべてに4番・ファーストで先発出場し、日本一に貢献している。またこの年流行語大賞を獲った「新人類」の代表のように言われ、工藤公康、渡辺久信と表彰式に出席した。

黄金時代の西武にあって4番に君臨し、3番秋山幸二とのコンビは「AK砲」と呼ばれた。後にオレステス・デストラーデが加わり「AKD砲」となる。全盛期には『三冠王に一番近い男』と呼ばれた。また、西武入団時には当時の球団代表であった坂井保之氏から「四冠王を目指してほしい(打率・本塁打・打点+盗塁)」と期待されるほどの俊足であった。清原自身は盗塁に意欲的ではなかったが、2桁盗塁を二度マークしている。

かつては王貞治を超えるのは清原しかいないとまで言われ、入団4年目の1989年6月4日には史上最年少となる21歳9ヶ月での100号本塁打を達成。3年後の1992年6月26日には同じく史上最年少となる24歳10カ月で200号本塁打を達成した。

守備も上手く、一塁手でゴールデングラブ賞を5度受賞している。なお年に数試合は三塁を守り、日本シリーズのセ・リーグの本拠地での試合でも、普段は指名打者のデストラーデが一塁、清原は三塁を守った。

1990年オフ、当時としては史上最年少となる23歳で1億円プレイヤーとなった。

1986年から1988年まで、1990年から1994年までの8度のリーグ優勝、6度の日本一(1986年~1988年、1990年~1992年)に貢献。日本シリーズでは一度もMVPは獲れなかったが1986年、1988年は優秀選手に、敗戦した1993年、1994年は敢闘賞に選ばれている。

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