多くの人にとって自分が持っている物や愛用していた物は、ただの物ではありません。手に入れた時の思いも染みこんでいれば、長年にわたる思い出とも結びついていることでしょう。
それを簡単に手放せる人というのは、よほど悟っているか、さもなくば今やその物に何の価値も認めなくなっているかでしょう。
いずれにしても、自分の人生の一部をなすほどの存在感とともに空間の一角をしめているとすると、その物には相当のエネルギーが蓄積されているはずです。それだけに手放すのにはまたそれだけのエネルギーを使わなくてはならないはずですし、それなりの決断も必要です。
これから話すのは自分の事というより、暮らしをともにするひとが経験したことです。三十数年も前に買ったヤマハ・クラビノーバ。しばらくピアノに向かう心境や環境が整わない時期がつづき、そのうち音が出なくなったということです。いや、もっと正確には一時、音が出たと思ったら、それも糠喜びで、また出なくなってしまい、それでもなかなか手放す気にならなかった、と。
いつかまた弾いてみたい。そんな日が来ると信じて。しかし、何度試みてももう二度と再び音は出てくれませんでした。そして、ようやくあきらめる気になったとのことです。
もちろん、愛用していたものを手放すことで空いたスペースに新たに入ってくるということは考えたでしょう。いずれにせよ本人にとっては、余程の決心だったと思われます。
さて、いったん手放す決めたもののそれまでは短時日というわけにはゆきませんでした。そのあいだ鍵盤と脚とに分解された電子ピアノが部屋の出入り口付近に置かれてありました。足をぶつけるととても痛いので、通るたびにぶつからないよう注意する必要がありました。
出すには、家の門の前の歩道にそったところまで運ばないといけません。その前にクリアしないといけない難関がありました。脚はいいとして、問題は重量のかなりある鍵盤をどうやって二階からしたに運びだすかです。
ふたりで案を考えました。まず毛布で物をくるみ、廊下と階段にも養生用に毛布を敷いてその上を滑らすようにして降ろそうということになりました。
前夜、慎重に二階から階下まで慎重に運ぶところまでは成功しました。こういうときは、全身の細胞を目覚まし、神経を研ぎ澄まして、一つひとつの動作を丁寧に行う必要があり、雑念を払い、集中するとともにリラックスしないといけません。まさに瞑想そのものです。
一夜明けて、さて問題は玄関から門までです。飛び石とそのあいだに敷き詰められた玉砂利があります。片側には塀があり、それにそって竹が生えていますし、反対側は露台状に段差をなしているテラスのクリンカタイルにより、通路が狭くなっています。そこでここをどう通り抜けるかということを考えた瞬間、イメージが浮かびました。それは鍵盤の横幅の狭いほうを天地にして縦に立てながら、四つの角のうちの底部のふたつを右足左足を順に前に出すようにして、「えっちらおっちら」と、歩くようにしてあげるのです。よく介護ヘルパー職のひとが、ふだん車椅子に乗っているひとが起ち上がって歩くときの補助に両手を握っり合って、後退(あとじさ)りするような感じでに、あたかも鍵盤とペアを組んだダンスのパートナー同士のように向き合ってやるのです。もちろん通路の狭さゆえに一人で。
すると、どうでしょう。面白いくらいに上手く行きました。なにしろ運び出す品物と飛び石や玉砂利とのわずかな接地面を支点にすることにより、重量の大部分が地面に預けられていますからね。こっちは舵取りおよびバランスとりだけやればよいわけなので、とても楽なわけです。
ちょっと注意が必要だったのは、四段くらいの階段でしたが、それもクリアでき、やっと舗道の前までゆけました。こうして長年、お世話になったヤマハ・クラビノーバを無事運びだすことができたのでした。
不思議なもので、その日以来、滞留していたエネルギーがリリースされたのか、使えなくなった物が占めていたスペースがクリアリングされて風通しがよくなっただけでなく、精神的にもすっきりとしてもう二度と古いエネルギーが再活性化されることもなく、非活性になった感じがしました。
ちょうど畑の菌ちゃん畝の土づくり(昨年11月10日に溝を掘り、高畝を築き、12月20日に炭素資材を積み、21日にマルチ掛けをしてから、四ヵ月以上寝かせた)がだいぶ進んでいよいよ作物を植えるまでの種まきや育苗を家で始めた頃だったかと思います。
カレンダーで調べてもらうと、クラビノーバとさよならしたのが、4月25日のことでした。
なんでこんなふり返りをしているかというと、つれあいにとってもぼくにとっても畑を始めたことはとても大きな転換点であり、そのことと、音楽なしの人生と生活は考えられなかったと本人が述懐しているほどに彼女にとって重要なパートとウェイトを占めるものを象徴する楽器を手放したことは、その後の展開を見ても、とても無関係とは思えないからです。

もう一ヵ月以上も前に、彼女が愛用の電子ピアノを使って作曲・演奏を楽しんでいた頃のことを、本人にいつものように録音をとってインタビューしてみることがありました。幾つか聞きだしたことを挙げてみます。
ー 自分で作った曲を聞くときって、どんな感じかな?
「自分の作った曲に聞き入っているときは、心と波長が調えられ、癒され、つながっているときの自分に帰れるね」
ー うーむ。つながっているときの自分に帰れる…‥いいね。それはどんなイメージだろう。
「畑仕事をしていてもそのリズムが流れている。無思考になれる」
ー わかる。そこで曲が生まれたときの話になるけれど。その瞬間の状況は?」
「パァーッと降りてきて気づいたら終っていた。とくに前半部分がそう。宇宙につながっている自分にもどれる感じ。後半の五曲のうち三曲は覚えていない。今畑をやっている自分にそぐわない感じもある。エネルギーが。でも、入っちゃっているから、いいや。そんな勢いでできたんじゃなかったかしら。それにしても、今だとまったくなじみがない音楽とは、いったいどこからきたのか、と思うんだけど」
ー そうね、不思議だな。憶えてないんだ。
「そう、本当に憶えていない。面白いかどうか……」
ー 疑問なんだね。
「浮いたスピード感があるし、いいんじゃんと思った時期もあるんだけどね。一時期よりも今は曲にたいする自意識や思い入れがほとんど消えているんだ。緊張感がない。自分の手を離れていると感じているからかもしれないね。その人に合ったフラワーレメディーやホメオパシーが他の人にも効き目があるとはかぎらないようにね」
ー まあ、たしかに。人それぞれその時々で表現したいものっていうのは、変るよね。そして、どうしてそんなことがやりたかったのか、そんなことを考えてたのか、今の自分にとってはすぐにはわからない、ということもよくあると思う。だけど、それはそれでいいと思うし、自然なことかもしれない……。
いや、実際わたしたちは、「心(mind)」というものとは別であるはずなのに、それが思い描く世界と自分を同一視してしまっていることが多いですよね。本当に悟ってゆきたいなら、そこを切り離す必要がある、という意味のことを、神智学でも教えています。
ところで、明日は何の日でしょう。夏至ですね。一年のうちでもいちばん火の氣が強い夏至は、最強の太陽が輝く時節ということでもあります。古代ケルトの魔女たちは太陽が闇に勝利したことを祝して集います。
毎日のように畑に行って、そこで生命の横溢しているのを実感し、喜びを味わっていますが、結局、パートナーのMuuも今も以前も変らず宇宙へと意識を拡げる表現欲求に駆られるとともに、この大地や水や樹木のいのちのさきわう地球への限りない愛しさを表現したい衝動を受けて表現していることでは、底流に変らぬ愛があるのではないかな、という理解がぼく自身の中でもようやく生まれてこようとしているみたいです。
夏至の前夜の予祝という意味でも、今夜こちらを紹介する運びとなったことに個人的な意図を超えた何かを感じています。
Muuこと言海六羽のアルバム『ETERNAL BLISS』(全10曲を5曲ずつPartⅠ、PartⅡに分けています。PartⅡは現在編集中です)の当ブログでの初公開になります。
じつは、わたしがこのたびのヤマハ・クラビノーバとのお別れに際して、昔作った曲のいくつかを紹介する動画を頼んで作ってもらったんですけどね(笑)

言海 調の生まれ育った地に近い街のフライ屋で。他にない極旨のお店は知る人ぞ知るの庶民的なお店で、二人で行ったり、画家の友人を連れていって感激されたりしましたが、多くのファンに惜しまれながら、このあと少しして2019年に閉店。消えることになりました 2016年5月14日撮影
