ここでちょっと皇道派と統制派がそれぞれどういう性質のものであったか、そして両派の対立は何を意味したのかということを考える材料として、同じ著者の文章を以下に紹介することとします。なお著者の橋本徹馬氏自身は、信頼を寄せていた真崎参謀長をはじめとして直接会って話をしていたのが皇道派の人々であることからしても、彼らの考え方に近い立場だったと思われます。また、橋本氏が庶民の苦しみをよく知り、真に平和主義者であったことがうかかがえるのは、関東軍参謀の板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らが勝手に起した満州事変に際して論功行賞があたえられたことの誤りを指摘していたことや日米開戦を未然に防ぐために奔走されグルー駐日米国大使やアンリ駐日仏蘭西大使らに交渉の働きかけをするなどの尽力をされていたことからも明らかです。

 ただ、以下の文章に登場してくる「国体」という言葉に関して、当時の橋本徹馬先生が抱いていた美しいイメージと実際の過去の歴史がどうであったかということは別なのではないか、という気がしています。あくまでもこれからどういう現実を創造してゆくかというときに理想主義もイメージもたいへんに大事ですが、その目標を成就してゆくためにも過去から現在に至る事実の具体的な検証というのは、疎かにはできないことだと思っています。
 

深川洲崎十万坪 安藤広重 名所江戸百景

 

 昭和六年十二月に荒木貞夫さんが犬養内閣の陸軍大臣に就任したが、その頃から陸軍内部内の皇道派と統制派の対立が甚だしくなった。当時荒木陸相、真崎参謀長、柳川次官、山岡軍務局(少将)等が皇道派の代表的人物であった。

 皇道派は隊付の尉官級青年将校を主力とし、天皇中心の国体至上主義を信奉した。統制派は陸軍省などの中央幕僚の佐官級将校を主体とし、財閥・官僚と結んで軍事勢力の伸張と戦時体制の樹立を目指し、軍部内の統制を主張した。
 

 

選曲:コトウミシラベ 協力:コトウミムウ

 

 大体すべてが天皇の軍隊である以上は、みんな皇道派であることは当然であるのに、皇道派であることに喜びを持てない者が、そのころ相当多かった。後日のことから考えてみると、この連中は権勢派、または出世派ともいうべき連中であった。

 

 東条英機(大将、陸相、首相、参謀総長、A級戦犯で絞首刑)、杉山元(元帥、陸相、終戦後自決、)、畑俊六(元帥、陸相、A級戦犯で終身刑)、寺内寿一(元帥、陸相、終戦翌年シンガポール抑留中に死亡)、梅津美治郎(大将、関東軍司令官、参謀総長、A級戦犯で終身刑)、板垣征四郎(大将、中国派遣軍総参謀長、陸相、A級戦犯で絞首刑)、土肥原賢二(大将、在満特務機関長、陸軍航空隊総監、A級戦犯で絞首刑)、小磯国昭(大将、朝鮮総督、首相、A級戦犯で終身刑)、武藤章(中将、陸軍軍務局長、A級戦犯で絞首刑)、木村兵太郎(大将、陸軍次官、ビルマ派遣軍司令官、A級戦犯で絞首刑)、後宮淳(大将、第三方面軍司令官、終戦後シベリヤ抑留)、建川美次(中将、第十師団長、駐ソ大使)等が統制派の主たる人達であった。

 

 この統制派が二・二六事件の連中を処刑し(昭和十一年七月)、且つその後八年間の戦争を続けて、日本を敗戦降伏に至らせた主役の人々である。

 註。A級戦犯二十五名というが、そのうち私の問題にするのは、絞首刑になった人達である。この人たちが最も責任の重い人々であったと思う。
 

 『日本の敗戦降伏裏面史』(橋本徹馬著)第一章 大戦争の三大遠因 二、打ち続く政党政治の失態 より

 

(つづく)