今日は終戦記念日。79年前の8月15日正午、昭和天皇による玉音放送(「(だい)東亜(とうあ)戦争(せんそう)終結(しゅうけつ)詔書(しょうしょ)」の音読レコード(玉音盤)のラジオ放送)があり、連合国側から提示された共同宣言(日本の無条件降伏を約束するポツダム宣言)の受諾の求めに応じる旨を日本政府をして通告せしめたと国民に報されました。 

 

 

 

 

 さて、毎年この日を迎えると、思い出されることがあります。それは4年前にこのブログで書いた記事のことです。船会社に勤めていた父は、民間の商船、客船もすべて徴用され、陸軍部隊などを運ぶ輸送艦に転用された船(陸軍期間傭船)の乗組員としての任務に就いておりました。そして敵潜水艦の雷撃に遭い轟沈させられ洋上をさまよった末に救助された体験談を聞かされ、会社の戦時船史でも読んでいたわたしの心に飛びこんできたのが戦艦大和ノ最期』(吉田満著)という本でした。(以下、4年前のブログからのダイジェストです)

 

 

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 その晩のことです。時計の針は午前二時を回り、三時に近づいていました。

 

 妻に入った霊人が苦しそうに声をしぼるようにして訴えかけてきたのでした。

 それが起きたのは、一日からだが重く、しんどくて、しんどくてしょうがない、変だな変だなと思っていた彼女が夜になってようやく日本海軍の連合艦隊のうちの最後の艦隊として闘い散った御霊たちだとわかったと伝えてくれたので、わたしがお浄めの柏手を打つことにして、ちょうど光を送りはじめ時でした。

 

 

 

「無念じゃ。(英霊として)奉られることを望んでいるのではない! 美しい日本を守るために闘ってきたのに……国土を汚され、人々の心は乱れきり……無念じゃ!」

 

 

 

 こうした体験は何度もしておりますが、戦争の犠牲となって亡くなった人の想いを表現した声でも、戦艦大和の最期の場面で海に散った御霊が語りだすのは初めてのことでした。

 なんのために命を捧げたのであるか。今のこの日本の体ていたらくを嘆き悲しみ憤り、無念な気持ちをうめくように声をふりしぼり訴えているのがわたしの胸にひしひしと伝わってきました。 
 
 わたしはすぐさまこの霊人の感情に寄り添い、心よりお詫び申し上げました。

 

 

「今こうして生きているわたしも日本の現状を見て残念でなりません。今おっしゃったことはしかと承りました。
 かならずこの日本を美しい国土と美しい心の日本に生まれ変わらせるよう努めてまいります」 

 

 と、声にだして告げ、魂から誓いました。そしてこう付け加えました。

 

「命をかけてかならずこの日本の天命を完うさせますので、どうか天から光をお送りください。 

 かならず日本が世界の平和の中心の(雛形ひながたの)国として、皇国の本来の姿を現しますから、どうか見守っていてください。 

 永遠の生命の相から、わたしたちの行く末を見届けてください。 

 

  わたしたちもいずれ死んでゆきますが、後々の世代に平和な美しい日本(と地球世界を)をのこしてゆきたいと思います。 

 

 もう二度とこの地球上にあのような悲惨な戦争は起こってはなりません。そのためにこの神聖復活の印の波動を響き渡らせてまいりたく思います。そして戦争で犠牲となった戦闘員、非戦闘員の尊き生命のためにも、永遠の生命を輝かせてまいります」と。

 

 

 

  それから、わたしは目の前の妻に向かい長い呼吸とともに丁寧に心をこめて「神聖復活の印」を組みました。目を閉じた妻の表情はまだ苦しげで海に溺れた時そのままに荒い息にあえぎながら、こちらからわたしの肉体を介して放たれる宇宙神よりの光を有り難く受け取り吸収するような恍惚とした感じでありました。 

 

 

  妻の眼から流れる涙をぬぐうためのティッシュを手渡しつつ印を降ろしつづけるうち、しだいに穏やかとなり、ようやく鎮まった様子でした。

 

 

 やがてもどってきた妻の話によると、艦船をのみこんだあとの海は静まりかえって夕暮れの美しい残照に映え、とても悲しい色をたたえていたけれど、その海から御霊たちが天に昇ってゆかれるシーンらしきものが見えた、ということでした。


 

(ブログの抜粋はここまで)

 

 

 戦艦大和の乗組員として生き残って戦後を生きた(1979年 56歳歿)吉田満さんは、別のエッセイ『一兵士の責任』でこう書いています。以下、再び、ブログからの抜粋になります。

 

 発見した第一の事実は、戦争一般について、また特に今度の戦争の意味について、私が強い疑念をもっていたにもかかわらず、同時に召集令状に対しては、これを受入れることが国民としての最低限の義務であると考え、徴兵を拒否することにより戦争を絶対的に否定するという道をとらなかったことである。戦争を好む立場からはもっとも遠い地点にいたのに、それに押し流される以外に道がないと観念することが、私には自然に思えたのだ。<太字強調は、筆者言海によります。以下、同様。2004,8,15追記

 

 第二は、軍隊生活の中で、私が意識的にサボろうとする態度をとらなかったことである。性格的には肉体的にも、軍隊への適性をもたず、毎日の兵営生活は苦悩の連続にほかならなかったが、一方課せられた最低限の義務をすら怠ることは、いさぎよしとしない気持だった。

 勝利に最善を尽くすことは決してなかったけれども、普通の人間の当然な誠意だけは持ちつづけた。つまり平和の日が一日も早くくることを切望する気持と、戦争家業<筆者註…「家業」は「稼業」の転記ミス(本の文章を書写した際の)かと思われます2004,8,15追記>にたいするある忠実さとが、私の中に両立しえたのだ。

 

 第三は、戦争というものの本当の悲惨さの実感である。われわれの特攻作戦に参加した万に近い将兵に限ってみても、一人一人何十年かずつの人生をここまで引きずってきたあげく、一つの戦闘という虚無のルツボの中でいっさいがうたかたのように消えさるほかなかった。

 悪徳士官の非業の最期というようなわり切れたことではなく、士官も兵隊も、善い人間も悪い人間も、すべてが無差別に〝戦争〟の暴力の中で押しつぶされたのだ。戦闘に直接参加した奴は一様に好戦的で、だから当然の報いとして無意味な死しか与えられないのだとしたら、悲劇としての底はむしろ浅いといえるだろう。

 そうではなくて、あらゆる煩悩、あらよる未練にさいなまれた無数の人間の前に、それとはまるで無縁のような無頓着さをもって、徹底した破壊力が横行するのが戦争なのだ。(後略)

 

 

 そして、わたしにとっていちばん心に響き、考えさせられたのがつぎの四番目でした。

 

 第四には、戦争の悲惨さの一つの極致として、いよいよ死に直面した時のわれわれの心情をあげなければならない。出撃がほとんど生還を期しがたい特攻作戦であることをはじめて知らされた時、まず胸にきたのははげしい無念さだった。学生として豊かな希望を恵まれながら一転して軍隊の鞭むちと檻おりの中に追いこまれ、しかもわずか二十二歳の短い生涯を南海の底に散らなければならないことへの憤り、自分が生れ、生き、そして死ぬという事実が、ついに何の意味も持ちえないのかという焦慮。

 

しかしいよいよ戦闘の最後の場面で、乗艦がほとんど真横に傾き水平線が垂直に近い壁となって蔽いかぶさってきた時、立てないほどに疲れ果てた私にはもはや悔いも憤りもなく、純粋なある悲しさと、何かを訴えたいような昂(たかぶ-筆者読み仮名註)りだけが残っていた。(下線は筆者による。以下同様) 何を訴えようというのか。

 

生き残った同胞が、特に銃後の女性や子供が、これからの困難な時代を戦い抜いて、今度こそは本当の生き方を見出してほしいと、訴えるというよりも祈りたいようなのかぎり叫びたいような気持だった。太字強調は筆者によります。2004,8,15追記

 

― 戦争の真唯中(まっただなか-筆者読み仮名註)でもがきながら、われわれの死をのりこえて平和の日がやってくることだけを、ただ願わずにはいられなかったのだ。」

 

   (吉田満『戦艦大和』「一兵士の責任」より 1966年 河出書房新社刊) 本の引用はここまで。あとは、ブログからの抜粋になります。

 

 (中略)

 

 戦後わたしたちは、どんな生き方をしてきたのか。家庭から社会まで経済優先の考え方を基本に生きてきた結果、「本当の生き方」はおろか、人間とはいかなるものかその存在の本質を問い、真実の生き方についてみずから考え、答えを見出すところまでは決して行っていなかったことでしょう。

 

 もし仮に一人ひとりが自己の内部の深みに沈潜して、そのレベルまで思索を深め認識を獲得するまでに至っていたなら、現在とはまったく違った世の中になっていたことでしょう。そうなれば、南海に散った人々の御霊の嘆きも悲憤慷慨も聞かなかったことでありましょう。

 

 

 今日よく知られるようになったスピリチュアルという語にしても、あまりに軽くあつかわれている感はないでしょうか。真に霊的魂的なものを重んじるということは、たんなる興味本位や知識を集めることではなく、もっと厳粛な態度で臨むべき領域のことであるはずです。

 

(ブログの抜粋はここまで)