「水火(いき)は 天地に在て、音(コヱ)は人に在(アリ)」(山口志道『水穂伝』より、以下同様)

「五十聯(いつら)の十行は天地の音なり」

「人間、此灵(このれい)を動(うごかし)て言(モノイフ)なり」

すでに調和した音と響が あるのですネ 天地自然には 

わたしたちの 賜りものである 音声器官 コヱを どう使うか これが大事です

以下は、去年の9月に書いた記事の一部の再掲になります

 

 

仏陀は生涯に一冊も本を残さなかった

 

彼はガンジス川の流域を歩き 人と遇い 

 

問答を交わし 説法した

 

弟子たちは 聞いたことについて 語り合った

 

 

 

(けつ)(じゅう)というそうだが 意味を調べると

 

「釈迦入滅後、教団の代表者が集まり

 

仏説を集成し編集したこと」と 出てきた

 

 

 

記憶の間違いは正し(糺し) また議論し 

 

世尊(釈尊)の教えを 偈(げ)にしたり

 

編纂して 経典が 生まれたりした

 

 

ソクラテスも 一冊も本を書いていない 

 

プラトンらとの対話が 

 

後世に 本として遺されたのみだった

 

 

語りを 聞くことを とおして 

 

語り手の 言葉の内容だけでなく

 

表情や 口調を つうじて 伝わるものを 受け取り

 

気持ちや 雰囲気までも 読み取り 感じ取った

 

 

 

以上は 一昨日の 作家の五木寛之さんの講演会で 

 

お話されていたことだ 心に残った言葉は

 

 

「読書は人生に 豊かさをもたらしてくれるけれど

 

本当に大事なことは 聞くこと語ることなのではないか」

 

 

 

そうなのよ~ 姑息に生きるなかれっ と  

 

ちろちろと火は燃える 炉辺に集まる子等  

 

語りべ婆ちゃん爺ちゃんの おはなしに耳傾けり

 

 

 

ゆったりした時の流れで テストの準備に追われることなく

 

虫の声 鳥の声はじめ 風の音 雨音を友とし

 

自然とともに過ごしながら

 

自分とつきあい 思索し 理解が深まり 熟成し

 

発酵してく 精神世界

 

 

 

何ヵ月か前 たまたま図書館で フライヤーを

 

手にしたのがきっかけで 講演会に申し込んだが

 

暑い中 丘の上まで歩いて聞きに行って よかった

 

 

 

わたしは この1年ほど

 

神代学(言霊学)者を 主人公とした小説の

 

執筆に取り組んでいるが これは・・・

 

「漢字渡来以前に文字はなかった」

 

と信じられているわが国に

 

神代文字・古代(くに)()と呼ばれる

 

固有の文字(八十種以上)が存在し

 

風のうなり 波のどよもし 鳥の鳴き声と同じく

 

人にも音声(コヱ)あり

 

物言えるための 言(ことば)があたえられ しかも

 

「アイウエオ五十音のそれぞれの音のひびきに

 

意(こころ)と法則の教えがあること」

 

伝えようとする仕事でもある 

 

 

 

それだけに五木さんの言われることがよくわかった

 

グーテンベルクの印刷技術の発明以来 活字が読まれ

 

一般市民は 教養を高められる機会を得たが

 

活字は 単なる伝達手段ではないかと 五木さんは話す

 

 

 

柳田國男『遠野物語』も聞き書きだった 

 

佐々木という人により 方言や訛りが

 

そのまま記録された

 

いま書いている小説の中に登場する 

 

古事記も 口承文学の一つ

 

 

五木さんの少年時代 父親が師範学校の教師だった関係で

 

福岡から 赴任先である北朝鮮の平壌に家族で渡り

 

学校の敷地内の官舎に住み 

 

真夜中に 父親が管理する図書館の

 

鍵を使ってこっそり図書館に忍び込み 

 

本を読みあさったそうだ 

 

 

 

読書は 孤独に 黙読するものであるが

 

声に出して読むことが大事ではないかと 

 

五木さんは言っておられた

 

(父親に早朝たたき起こされ 古事記日本書紀を

声に出して読まされ 漢詩も朗詠させられたそう)

 

 

 

これは大賛成で うちでもよく朗読をやる

 

古事記は 天武天皇が 口伝えに 

 

稗田阿礼に 暗誦させ 

 

習わせたとされているけれど 

 

もともとの原古事記があり

 

それが神代文字で書かれていたことは 知られていない

 

だからこそ 太安万侶が 変体漢文に 

 

置き換えるのに 苦労したわけだ

 

 

 

漢字が苦手な子たちは ボキャブラリーが貧困

 

と自覚しているらしい

 

そういう話を 子どもに教えている友人から 最近聞いた

 

そんなことはない と わたしは 彼に言った

 

それよりも もっと カナから 学んでほしいとおもう

 

それは 古代(かむ)() 古代(くに)()の名残である 

 

言霊法則を 学ぶことでもある

 

 

「漢字優位の 文字文化から 

   カナ中心の 音声(コヱ)文化へ」

 

 

これが わたしの提唱するところだ

 

昭和7年(1932)生まれの五木さんは もしかして 

 

戦後知識人の 頭でっかちで 

 

余計なプライドがある面を熟知し 

 

経済優先主義 環境破壊などにたいし 為すすべもなく 

 

かえって日本を悪くしているのを 

 

痛感されてきたかもしれない

 

 

五木寛之作品は 『風の王国』を読み 感銘を受けた

 

他は読んでないのに ここにこの作家の思想が

 

よく出ている感じがしているのも不思議ではある

 

じつは妻の愛読書であり 何度も読み返したという

 

小説の中で重要な役割を果たすのが 

 

サンカ(山窩)と呼ばれる山の民である

 

定住せず狩猟採集で暮らし 戸籍にも載っていない 

 

子どもの頃よく部屋から二上山を眺めていた彼女が 

 

なぜか惹かれたという気持ちがわかる気がする

 

 

漢字は 概念的思考を 促すので 

 

現実遊離 観念的に なりがち

 

どうしても 嘘がはいるから 

 

偽善的で 自己欺瞞的になりがち 

 

一方 カナは もっと 即興的だからね

 

語りが 臨場感にみちてるように 

 

まことが表れ 隠れようがない

 

〝 Just now and here 〟 という わけだよね

 

 

即興(インプロビゼーション)文学 というのを 創設しようとおもう 

 

目下企画中のYouTubeでも 画策中

 

 

最近 YouTubeや zoom が 盛んなのは 

 

けっこうなことじゃないか 

 

SNS ブログ ツイキャスのコメント機能が

 

どこまで活用されるか ということも あるかとおもう 

 

社会問題に関しても 活発に意見交換しない風潮が

 

国会がありながら スピン報道に紛れて勝手に法案通す

 

強行採決するなどの 歪んだ政治に反映されている気がする

 

 

311のあと 『フクシマを遠く離れて』の監督の(ふな)(はし)さんと 

 

ちょこっと話す機会を得たことがある そのとき

 

「日本には ディベート文化が育っていない」

 

と 語っておられたのが印象的だ

 

彼は NY在住のあいだに そのことを痛感したとのこと

 

 

 

これまでの人生で 聞いた講演のなかでも 

 

最高に満足できた 五木寛之さんの講演のあと

 

妻とふたり 興奮冷めやらぬままに 

 

感想を語り合いつつ 丘をくだって

 

往きとちがい こんどは表通りではなく 裏通りを選び

 

 

川べりのプロムナード沿いに 逍遥(そぞろ)歩きを 楽しむことにした

 

 

 

黄金町から 日ノ出町に向ってのびる 

 

このエリアを歩くと 

 

一風変わった光景に出くわし

 

ゾーンに入った感がある それも歴史を知るとうなずける

 

 

 

 

 

 

しじまの時間アーカイブスより 元記事

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