あの世がどんなところで、なにをしているのかは、この世のわたしたちにはなかなか教えるというわけにはゆかないようです。それでもあちらに行くと、生前気がついていなかった多くのことに気づかされ、大いに反省し、その高まった心境から、こちらの世界にいる、生前肉親だった時の子に忠告をし、残された人生を有意義に送ってもらいたいと切に願っているのだということを、亡き母と話すことで今日も学びました。こうして母があちらの世界に行ってから、とくに1年を経たあたりから、あの世がこの世のつづきであるということをつくづく実感するようになり、後悔のない生き方をしたいとおもうようになりました。

 以下に再掲するのは、つい数日前にふと思い出して、読み返してみてこれをまた載せようとその時に考えた2年3ヵ月前の記事です。コロナワクチンがはじまった2021年からこの3年以上でどんどん人が死んでゆきますので、今こそ「死と生」について、考えることが大切な気がしています。(2024年 5月8日)

 

 

   先ほど従兄弟(母のすぐ下の3年前に他界した弟の息子)から電話があって、叔父(母の三番目の弟)が亡くなったとの報せを受けました。

 3日前の朝、母が介護ベッドから降りてしまい、もともと車椅子が必要な人なので、発見した時にはすでに床に転倒していて加湿器も横倒しになっていて水浸しになっていました。母はいつになく錯乱していて、自分の弟の名を呼びながら、そこにいると床の上やベッドの下を指さしています。もちろん、何も見えません。早く、早く、とか、助けなきゃという言葉を発し、必死な様子です。妻が母を支え、わたしが力を貸してふたりでなんとか本人のからだをやっと立てて、ベッドに寄り掛からせるのですが、妻がおさえているそばから、振り切って身を乗り出そうと抵抗します。認知症のためにときどき幻覚を見ることがあるので、またその症状かとおもうと同時に、もしや叔父の身になにかあったのではないかと直感的におもいました。

 

  仙台にいる叔父の携帯に電話してみると、出ません。そこで(前出の)従兄弟に電話してみました。仕事中で折り返しくれた電話で、何も聞いていない、最後に電話で話したのが昨年春でその時は腰痛を訴えていたということでした。すると、わたしのほうが、もっと最近の叔父と電話で言葉を交わしていたことになります。昨年の晩秋の頃だったかに、やはり母がまるでそこに来ているかのように弟のことをしきりと言って、わたしをその弟に見間違えたりしたので、安否を気づかって電話してみたところ、叔父さんと話すことができました。すると、初夏の頃に亡くなった、母の二番目の弟の死に触れながら、自分も長いことないだろうと、酸素ボンベをひきずっているということを打ち明けずいぶんと弱音を吐いているので、わたしは「叔父さん、まさかワクチン打ったんじゃないでしょうね」と言ったら、うろたえた口調で「まあ、いいじゃない」と、それ以上は口をつぐんで、どうやら図星のようでした。これはいかんと感じながら、それでも母に電話をかわってもらい、わずかに数分だけ話すことができたのが、今生のお別れとなったのでした。
 

 

 従兄弟の話では、昨年12月に腰痛の原因が悪性腫瘍で余命3ヶ月と診断された叔父が息を引き取ったのが2月の3日のことであるとのことです。ということは、母の錯乱の翌日。じつは、母の錯乱の前日もベッドから降りて転倒していました。滅多にないことで、しかも2日連続で、というのは、在宅介護からまる一年をまもなく迎えようとしていますが、いまだかつてないことです。一生懸命に祈ったり、印を組んだり、母に真理の言葉を語りかけたり、妻が『朧月夜』を歌ってあげ、三人で楽しく唱和したりするうちにあの不穏は嘘のように過ぎ去り、いつものとおり穏やかになりました。

 

 ところが、3日の晩に妻がまったく原因不明の眼の奥の痛みと嘔吐感に襲われて、さんざん苦しみました。今考えてみると、それはちょうど叔父が肉体を離れてから24時間もたたないうちの出来事だったのです。4日朝起きてみると、前夜からの彼女自身の祈りや自己ヒーリング、わたしの応援、そしてなによりも大天使をはじめ、守護の神霊の癒しなどもあって、だいぶ回復していました。

 

 そして、その日の夕方のことです。どういうわけか、わたしの脳裏にある曲のフレーズが浮かびました。

 “はじまりはいつも愛” 小田和正さんの作詞作曲になる歌のイントロの歌詞です。その歌詞とともにメロディーがあたまのなかを流れ、とてもなつかしい気持ちになったと同時に、聴きたいとおもいました。しかし、曲名さえ思い出せず、とにかくこのフレーズだけで検索をかけると、すぐ『時に愛は』という曲名とともに動画が見つかりました。音楽が流れだすと、ふたりで歌っていました。お互いが出会うよりはるか以前に、お互いに好きだったオフコースのこの歌を。

 

 

 

 

 

 

はじまりはいつも愛 それが気まぐれでも

 

ただ青くきらめいて うそのかけらもなく

 

 

 オフコース数々の名曲の中でもとくに名曲なのではないかと、あらためてこの歌の素晴らしさにおどろきました。とくに歌詞が素晴らしいとおもったのは、なにか通俗的な恋愛観を超えた大いなる存在につつまれているかのように感じられたからでした。

 

 

遠ざかる日々たちよ 二人を観ていたね 

 

傷つくだけ傷ついて 立ちつくすふたりを

 

時に愛は力つきて 

 

崩れ落ちてゆくようにみえても 

 

愛はやがてふたりを やさしく抱いてゆく 

 

 

 

 その時、わたしの脳裏をよぎったのが大天使の存在だったとおもいます。いや、それに気がついたのは、1日ほどたってからだったといってよいとおもいます。夕方、従兄弟から電話があって、本日の午前中に叔父さんの死を報されたことを聞かされるとともに、先日の彼との電話ではじめて知った母のたった一人の妹が、今日の電話では先月の15日に亡くなっていたとわかり、その日ちょうどトンガの大噴火の日で、その数十分前にはじめて自転車ごと倒れ、おとなになってからは自分にしては今までにない怪我を負ったことも、瞬時に納得がゆきました。

 

 

 今日も、妻とダスカロスの本『真理の言葉』を声にだして読みました。

 

 つぎは、その一節です。

 

 

 例えば、もし聖なる人と犯罪人が争いとなり、互いに傷を負った場合、聖なる大天使たちは彼らのパーソナリティーに関係なく、両者の傷を癒し、折れた骨を修復します。犯罪者であっても、聖人と同じように癒されることになります。なぜなら、大天使たちの立場から見て、彼らが知っていることは愛すること、そして肉体を創造し維持することだけだからです。彼らは子供の成長を見ることが好きです。また、彼らの尺度で人間が成長していくことを見るのが好きなのです。(中略)私たちは人間として狭量な「時間-場所のパーソナリティー」で、私たちが〝エゴイズム〟と呼んでいる暗いベールに自己を何重にも覆い包んでいますが、そのような私たちを大天使たちは敬遠しないのでしょうか彼らはそのようなものを回避し、見ようとしません。しかし、彼らは常に私たちの〝魂と霊〟と継続的なコンタクトを取っているのです。 

 

『ダスカロス スティリアノス・アテシュリス博士の講義録より撰集 真理の言葉』撰者 パナヨッタ・セオトキ・アテシュリ 須々木光誦 訳 第1章「善なる智恵、意志の喜び、ライフライト、大天使、天使、観察、愛、マインド・バイタリティー、エゴイズム」 P.23より

 

  

 なぜ、大天使たちが狭量な現代人のパーソナリティー(前にこのブログで一時的な存在、現在のパーソナリティーに触れたことがありました)から距離をおきたがっているかという理由について、ダスカロスは述べていますが、それはあまりにも彼ら現代の人間の大半が、神や大天使をも支配できると考えているほど自己中心的であり、愚かだからだということです。もしわたしたちが大天使とコンタクトをとりたいと願うなら、自分の意識を「自己意識」にまで高めなくてはならない。そうすれば、大天使たちはたいへん喜び、支援の手を差し伸べてくれるだろうといっています。30年近く守護霊守護神の存在に感謝しつつ世界平和の祈りをし、4年くらい前にローナバーンさんに会ってからは、守護天使にお願いすることにたいし遠慮がなくなってきました。10年以上前から知っていたダスカロスをここ数年であらためて学び直していますが、大天使の癒しやヒーリングについて理解し、体験をつうじ実感できるようになってきただけに、こうした真理の言葉は、とくに妻が具合が悪いときや自分の体が調子をくずしたときは魂に沁みます。大天使は、マインド超素材と呼ばれるものを使い、あらゆる宇宙や生命現象を創造できますが、人間は自己意識からさらに高い自己超意識にまで成長しないと、大天使のような御業(みわざ)はできません。ただ、絶対無限存在から恵みとしてあたえられるマインド超素材を使って創造行為をすることができるのみです。

 自己意識と自己超意識の違いはなんだろうか、という点にたいする疑問について、妻と話し合いました。人間が肉体のみにあらず、魂や霊と一体の意識存在であると知り、これらを貫いて一つに統合され、調和することで完成することを知っているのが自己意識とすると、それを実現し、自由自在に次元間を往き来できるまでに拡大し、全部を包みこんだ意識を超自己意識というのではないか、という結論になりました。

 

 わたしたちが受け取るマインド(註1)の量は、24時間で最大値の100単位になるとして、そのうちの40単位は聖なる大天使たちが肉体を創造し維持するために使われ、あとの40単位は、生活の手段として使われ、考えたり、動いたり、場所を移動したりということのためにマインド・バイタリーを消費し、最後の20単位が、わたしたちの好きなように使うために残されているそうです。この部分を、人-天使のエレメンタルに使うか、人-悪魔のエレメンタルに使うかで、自分自身の人生や他者や世界におよぼす影響が全然変わってきます。

 

 人間には、ふたつの相があります。永遠の相と一時的な相、ダスカロスの用語でいえば、永遠の存在と一時的な存在(註2)です。永遠のパーソナリティー(註3)と現在のパーソナリティー(註4)。二つの次元に同時にいるといってもよいでしょう。

 

 

 

 今日(五日)の夕方、従兄弟からの電話を切ってからさっそく先月亡くなった叔母さんと、3日前に亡くなった叔父さんのために祈り、印を組んでいると、叔父さんの別れた奥さんつまり叔母さんが、子供の頃の記憶とともに心に浮かびました。ちなみに二人の結婚式は父が仲人となり、披露宴は先日このブログでも取り上げた氷川丸(←『ユリカモメに逢った日』)の船上で華やかにおこなわれたと聞いています。叔父さんの死はちゃんと叔母さんに伝わっているだろうか、叔父さんがもとの奥さんである叔母さんのことを想う心が伝わってきて、なんとか報せてあげたいという想いが湧くとともに、なぜかあの歌が思い出されて、叔父さんが肉体を離れた日の翌日に、「はじまりはいつも愛」のフレーズがやってきたことに不思議な気がしました。

 

 

 

街はもうたそがれて 風は髪をゆらす……あの頃より……愛しているみたい 

 

走り来る日々たちよ 僕らは知っている 新しいいくつもの 嵐の訪れを

 

 

時に愛は力つきて 

 

崩れ落ちてゆくようにみえても 

 

愛はやがてふたりを やさしく抱いてゆく 

 

あなたは僕のことを 信じることに決めて 

 

ただ黙ってなつかしく 僕を見つめている  

 

 

 

 人間とは不思議な存在です。そして、不思議といえば運命も不思議です。予期せぬ出来事の数々。そのたびに味わう感情。感情があるということは……たくさん傷つき、たくさん悲しみながら、またたくさんの喜びやしあわせも味わえるということです。それが魂に沁みこみ滋養となるのか、あるいは深傷(ふかで)となり、毒になるのか。

 

 

 

 大天使はじめ見えない存在がどれだけ働いてくださっていることでしょうか。祈りは、だから食物とおなじくらい、いやそれ以上に人間にとっては欠かせない大切なものだとおもいます。

 

 

 これを書いていたら、先ほど二階から降りてきた妻がわたしにこんな報告をしてくれました。「今、洗濯物を干していたら(深夜ですが)、叔父さんが来て、『おっきぃねぇちゃんを、よろしくね』って。「叔父さんとのお出会いに感謝します。どうかお元気で。さよなら」と言ったとのことでした。それから、思い出したように、「お母さんの天寿まっとうまで、お世話させていただきます、とお伝えしたの」と。その姉にたいする呼び方(母のことをおっきぃねぇちゃん、母の妹のことをちっちゃいねぇちゃん、と生前叔父さんは呼んでいました)がなつかしくわたしの耳にひびき、まさしく叔父さんだよ、と興奮ぎみに妻に言っている自分がおりました。

 

 (2022年)二月五日の記

 

 母はこのことがあってからちょうど9ヵ月目の2022年11月6日に他界しました。 2024,5,8

 

 

(註1)マインド・・・「マインド」は、あらゆる生命の担い手である。存在するものすべては、「マインド」からできていて、その振動数の違いによって、「超素材(マインド超素材)」、「素材(マインド素材)」、「固体」と形態を変えているにすぎない。「マインド」は、神ご自身ではないが、絶対存在から放射されたもので、全なる愛、全なる知恵、全なる力、そして創造主の純粋性が吹き込まれている。「マインド」は、その源では、〝神聖なるもの〟であり、それが表現された状態でも、〝聖なるもの〟なのである。

 

 

 

(註2)永遠の存在と一時的な存在・・・永遠の存在とは、私たちの神聖なる本質であり、広大無限かつ始まりも終わりもなく、永遠に存在する霊をいう。一時的な存在とは、永遠の存在の投影として、「時間-場所-空間」の領域に制約され、始めと終わりのある一時的な現象をさす。

 

(註3)永遠のパーソナリティー・・・分離の世界や、それを超えた世界における「自己認識-魂」の活動的な表現豊かな部分をいう。「永遠のパーソナリティー」は、現在のパーソナリティーからの情報を濾過して昇華し、智恵として蓄えている。

 

(註4)現在のパーソナリティー・・・転生ごとに成長してゆく、いわゆるジョージやメアリーなどと呼ばれるパーソナリティーのこと。分離の世界における「永遠のパーソナリティー」の投影である。この小さな自己は五官から得られる情報にとらわれ、そこから派生するエレメンタルの総計に等しい。「現在のパーソナリティー」の学びは、謙虚で道徳的で愛に満ちた人格を養うことにある。

 

 

◇元記事

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