なぜ、「これから世の中がどうなるのか」を気にするのだろうか?

 そして、その答えを知りたいと欲するのは、どうしてなのか? 

 

 

 これはわたしが前々からずっと疑問に感じてきたことです。

 

 

 そういう心の動きをよく観察して、欲動の正体を見極めたなら、決して無意識的な衝動に駆られることはないだろうに。しかし、そもそもこの社会で潜在意識領域までマインドのスーパーライトで照射し、探照灯の光をあてることで、心の闇を探究し、自己自身のことがよくわかっている人は少ないのが現実でしょう。

 

 

 未来を執拗に気にし、未来がどうなるのかという問いにたいする答えを求め、それも(望ましい答え)を求めずにはおれない人の心理に何が潜んでいるのか。と、おもって意識を集中してそこの闇をじっと凝視してみると、見えてくるものがあります。

 

 不安。恐れ。では、何にたいする恐れか。究極は死です。人は自己の存在を物質的な体と同一視している場合、同一視せず、何かそれ以上の存在であると感じている場合とでは、死にたいする態度は、まったく異なってくるでしょう。

 

 もし、肉のかたまりでしかなく、死んだらお終い、行くところもない、と信じている人であれば、コロナでも地震でもなんでも脅威と映ってきて、恐怖心を掻きたてることでしょう。

 

 そうなると、寝ても覚めても、そのことについて考えていてもいなくても、常に不安や恐れの波動が心のなかで振動していることとなり、心が安らぐ暇がないということになり、相当なエーテルバイタリティーを浪費することになってしまうでしょう。

 

 

 したがって、この不快な苦しい状態から楽になりたいと欲するようになってきますが、そのためには二つの道が考えられます。ひとつは、真の自己を探究する道です。

 

  もうひとつは、とにかく不快感をあたえる自己の不安を覆い隠すことです。これは対症療法に喩えられます。見たいものだけを見て自分を安心させようとします。自分の欲望にとり、不都合なものは斥け、排除しようとする、そういう欲望エレメンタルが潜在意識でつくられ、あるいはもともとあったものが活性化されてきて、本人の意志とは関係なく独り歩きします。そして形態と色をもち一定の周波数をおびて振動し、想念形体をもつ生きものであるエレメンタルによって支配されていることに気づきません。

 

 

 その「安心したい」という想いが引き寄せるのが、未来に起きることを先取りすることで、不安を取り除いてくれる「予言」だと考えられます。

 

 

 一方、未来を左右できる力を自分自身の意識がもっていることを知り、意志しだいで未来はどうとでもなるという叡智が魂に刻まれている人にとって、誰かによる「予言」に頼ってまでも未来を知ろうとする必要があるだろうか、と考えてみると、答えはノーです。

 そういう人のなかには信仰をもっている人(必ずしも宗教組織に属していることを意味しない)もあるかもしれません。死後の世界や魂の輪廻転生や永遠性を信じている人もあるかもしれません。

 そういう人は何が起きても自分の運命にゆだねて、すべてを神に託して「神のみこころのままに」と受け容れられる心の準備が常にあるかもしれません。そして、自己の魂が常に主人であり、なにものかの虜となり隷属することはないでしょう。

 

 

 「未来はこうなる」と教えてくれる存在からメッセージを伝えてもらうことなしには自足的に生きられない、心が安らげない、となってしまったら、それは他人に自らの権能を委譲することとなって、依存関係のなかで自らの魂を売り渡したも同然でしょう。

 

 

 その際、メッセージの内容は関係なくなります。「神々の力により、必ず救われて世の中はこれから必ずよくなる」という予言Aでも、「人類の愚かさと罪を悔い改めぬことにより、神の鉄槌がくだり、その愚かさから目覚めさせるためにトンデモナイ災厄が襲い、人類はほとんど死滅する」という予言Bでも、同じことです。

 

 

 予言Aと預言Bは、表面上は正反対に見えて、本質的には同じです。

 

 

 なぜならば、自らの心をよく見つめ、理解し、魂の出自と真の価値に本当に目覚めることなしに、どこかに自己に直面することへの恐れと自己否定と他者依存の影に包まれたまま、自分にとって好都合な【まやかし】の言葉(予言)に憑りつき、自らの心の空虚を埋め、自分をだまそう、あざむく手段として、誰かを利用していることでは、同じだからです。

 

 

 それは真実を愛さないということです。真理を愛さないし、リスペクトしないし、それらの前に謙虚になれないということです。むしろそれらを恐れ、遠ざけ、そして憎んでいる。

 

 

 リアリティよりは、虚構を、夢想を、虚偽を、幻影を、イリュージョンが大事になってしまったのです。それらを欲するという意味では、イルミネーションのように賑やかな安心のキラメキを求めるのも、もはやうんざりな社会に、そして邪悪な人間たちに絶望し、憎悪しか抱いていないがゆえに、こんな社会も人間も滅びてしまえと思い、この呪詛を代行してくれる存在がいるなら、神でも悪魔でもかまわない、ということで破壊を求めるのも、いっしょだといえます。聖書に書かれてあることですが、「偽の預言者」がこれから出てくるから気をつけなさいと、イエスキリストは警告しています。光と見せかけながらじつは偽光である。これを見破る必要があるということです。

 

 

 ところで月は人間を幻想に陥れます。自らをあざむかせます。自分ではない自分の像を自分だと錯覚させます。それはルナティックな狂気を人生にもたらします。これはマドモアゼル愛先生の月星座の理論です。真実だとおもいます。太陽はみずから耀き、月はその反射を受けているだけで、ないものをあるかのように見せかける、というのです。ここに気づいて、自分の太陽にある星座の本質を体現して生きれば、人は自己実現ができ、幸せに生きられるというわけです。

 

 月にだまされた人たちが、真実と真実でないものの見分けがつかなくなるのは当たり前です。嘘でもいいから、信じたいというのが古来、人間の心理にはあります。もちろん、そんな欲念に負けて幸せになれるわけがありません。

 

 

 病的になりかねないくらい不安や恐怖に取り憑かれた人にとって、光明的な考え方や発想を言葉にして伝えられることが救いにつながることはあるでしょう。しかし、この場合、その言葉が悟った人の高い理解の境地から、しかも愛のこもった言霊として発せられ、放たれてはじめて、相手の心に沁み渡り、その人は救われるのです。そこを履き違えてはいけません。

 

 自分の弱さゆえに真実に立ち向かえない人間にたいし、口当たりのいい甘言にのっかって自己欺瞞を成功させることを手伝うだけのような予言者は、上のケースとは似て非なる者といわねばなりません。

 

 

 予言にかぎらず、なんにたいしてでも依存することは、まちがいなく魂を奴隷化することであり、自らの魂と魂を守護してくれている存在への裏切り行為となるとおもいます。

 

 

 未来は、刻々と変わる現在の波動に連動している。

 

 

 すべては未知であり、その未知のなかに可能性があり、希望があり、創造性があり、美しさがあり、喜びがあるのだ。わたしは、そうおもいます。

 

 

 以下、『しじまの彼方から』(言海 調著 2021年11月刊)上巻 第十四章 個人魂の苦悩 二節の途中~三節の途中を抜粋

 

 

「もちろんです。必要ですよ、お金は」
「ですよネ」判を押すように、磯村が念押しをした。
「さあ、そこが最大の問題です。人類にとって乗り越えるべき最大の難関だ」
「最大の、難関……?」
「そうです。あまりに意に染まない、違うことをして、いのちが生き生きとしない時間を重ねてゆくんでは、申し訳ない気持ちになります。一方、世の中はお金を稼がないことにものすごい罪悪感がある。どうですか?」磯村は確信をもって語った。
「そう思います。稼げなくなったらどうしよう。そういう恐れともつながってますね。その恐れと罪悪感が重石(おもし)のように心にのしかかっている。たいていの人の人生において多かれ少なかれね。そして自分の心身に無理を強いる結果、人は病気になるんですね」白樹の言い方に確信がこもっていた。
 磯村はそれを聞いて大きくうなずいた。
「ところが、どうでしょう。無力感を味わう破目になってしまったんですよ。わかりますか。このジレンマが」
 しぼるような苦しげな声で磯村が言った。いつのまにか食べかけのケーキが彼の手ににぎられたフォークによって、くずされながら、無意識のまま手は動きつづけた。白樹はそれを黙って見ていた。
「わかりますよ。自分の魂の声に従ったら、三次元で活動するのが著しく制約を受けるようになった。違いますか?」白樹はまたしても確信に満ちたはっきりとした口調で言った。
「そういうことです。ここは半分以上が、いやもっとか、物質で出来ている世界なんです。だから、物質的なものを動かす力が必要になってくる。当たり前のことを言っているな、わたしは!」
 言い終わると彼はやっと皿の上のくずれたケーキと生クリームを手早くかき寄せて口にほうりこみ、しばらく口をモグモグさせていた。
「自分の役目はほかにあるはずだ。しかしそうやっていれば、どういう末路になるか。ある日、気づくんです。これも自分で選んでいるんだなと。(おお)(がみ)さんなら、わかるでしょう、この気持ち」
 白樹は黙ってうなずいた。じゅうぶんすぎるくらいわかる。
「この人もそうです。わたしからすると、もったいないチャンスをつぎつぎ断ってきて……」と澪が言った。
「そうですか。奥さんも苦労されましたね」
「いいえ、わたしの苦労などたいしたことありません」
「うちも同じです。困ったことに、これがまた家内に理解があるために、こちらの自由を尊重してくれるんですね。昔の経験を活かして、この歳になってまた英語講師を始め、家計を支えてくれてますが。たどり着く結論は夫婦そろって同じで、きっと真にいのちを燃やし尽くせることが控えているはずだ、と。堅く信じているところがあるんです。傲慢なのかもしれませんね。鼻もちならない奴ですよ、こいつは。この社会ではそんなこと聞いたらみんな怒りだすか、危険思想に感染するのを恐れて逃げてゆくのが関の山でしょう」
 また相手が自嘲ぎみになってきたのを感じて、白樹は「いや、そんなことはないでしょう」と、本気で否定し、「さっき言いましたけどね。自分のからだと心に無理させたら、病気になると。それどころか、死ぬ時になってかならず後悔することになるだろうと、いつもわたしは思うんですよ」と言い添えた。すると相手は我意を得たりとばかりに嬉しそうな顔つきになって、「そうですよね。大狼さんもそう思いますか」と、言ってきたので、「そりゃそうですよ。磯村さんはだから一つも間違ってなんかいやしない。人間はお迎えが来たとき想いを残さずにサッとあの世に行かれるかどうか、ということで、その人の一生の値打ち、幸不幸も決まるんではないかと、わたしなんかどっかで思ってきたんじゃないかなあ……」と、自分で話しながら大事な事柄について語っていることに驚きつつも話が発展していささかしゃべりすぎたことに気づき、ようやく話頭を転じた。

 

     

 

「ところで、磯村さん。先ほどの天皇だったことがあるというお話はどうなったんでしょう? 当然ながら天皇はとても世俗的な存在とは思えません。その存在意義と天命からして。磯村さんがめぐまれた職場を捨てるというとても理解しにくい選択ができたのも、天皇だった魂の宿願が今生に持ち越されているから、というのはそれなりの説得力をもつようにも聞こえますが。しかし、ひとつだけ気になったことがあるんです」
「ほう。それはなんですか?」と磯村が興味ぶかそうに訊いた。

 

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コトウミブックス シリーズ 近日中にリリーススターほっこり

 

    

只今、準備中の【たまほんや “玉本屋”】ではカート機能を新設して、本をお買い求めいただけるようになります。Amazonに依存しない書籍の販売体制を構築しています。
 

なお、紙媒体の用意があるのは、前出の『しじまの彼方から』(Amazonに委託販売)と『サラベポポと魔法のコイン』(言海書店の玉本屋から購入可)のみです。

 

そして、『しじまの彼方から』が、上下合せた総ページ数で千三百ページと大部になっているため、今後は忙しい方々のためにもっと気楽に読めるように、選び抜かれた<短編、掌編(いずれも未発表作品)の佳品を電子書籍化>してゆく予定です。

 なお、いくつものテーマごとにシリーズ化してゆきますが、
『しじまの彼方から』も、章ごとに一部抄出され、独立した作品として取り扱います馬

以上、よろしくお願いいたしますスターほっこり

 

 

玉・本屋<たま・ほんや>オンライショップまもなくオープン音譜

今という時代に 私たちが心をこめて真実を語ることができますように星

 言海書店は一人ひとりの魂の力が最大となるよう 活気づける本をお届けしてまいりますラブラブ