塾世代。わたしが密かに自分の中でそう呼んでいる見方があるんですが、世の中を見て考察し、分析を加えるときにこの視座は結構役立っているなあという実感を得ているのも事実です。

 塾世代といいましたが、もう少し説明をしましょう。それによって、皆さんとの認識共有の一助としたくおもいます。

 塾世代を言い換えると、安直に答えを求める世代。とも言えます。ということは、問いを抱きながらも、その答えを自己の内側で時間をかけて探究し、育んでゆく前に、外に答えがあるかのように誰かからもらえることを期待してしまう。その誰かというのも、誰でもよいのではなく、当該の問題に関して知識や経験をもつその筋の専門家、地位や肩書があり、社会的信用がありそうな人、あるいはメンターといわれるような、その人にとって特別リスペクトできたり、頼れる人に限ります。

 

 

 ところが、これももしかしたら過渡期的な現象かもしれないと考えられます。というのも、最近では、チャットGTPなる究極のアンサー・マシン(お助けAIと称するべきでしょうか)が登場してきましたね。これにより、手間を省き、また人に頼らなくてはならない場合の対人関係にまつわる面倒なことが生ずる可能性を避けられます。

 さて、こうした傾向性がどうして生まれたのかは、その時代背景や時代特性とともに、なお考察する必要があるとおもわますが、一つには、目的を直線的に達成する上での実効性を第一に求める価値観(受験や蓄財や生活維持にとっての実利的ノウハウを重んじる)においては、じっくりと考えたり、試行錯誤したりする時間を惜しみ、安直に手っ取り早く答えを獲得するのが、時間の経済にかなった最も効率的な方法であるという半ば無意識的な判断というものが、行動原理となっているから、と、とりあえずは、考えられます。

 

 これと対照的な態度が、思索し、仮説を経験によって確かめ、認識に誤りがあるとわかれば更新してゆきながら、だんだんと理解を深めてゆく、つまりお酒を発酵させてゆくように、より正しい、本質的な理解へと近づいてゆこうとする独自の追究の姿勢というものだとおもいます。

 わたしはY世代の一つ前のX世代になりますが、Y世代がIT革命の黎明期から、21世紀に入るとともに起きた911事件(2001年)あたりまでに生まれて幼少年期を送ることになるミレニアル世代とも呼ばれ、情報の獲得でもコミュニケーションでもデジタルデバイスを好む特徴があるのにたいし、わたしたちのX世代は、もっとアナログ的で、本だとか、リアルに会ったり、手紙や電話によるコミュニケーションだとか、というものへの依存度が大きいという特徴があるとおもいます。この違いから、いきおい思考形態のタイプも異なってきます。

 

 ここで大切なのは、疑問を抱いたり、人生の難事や壁に突き当たったとき、外に頼らず、内に注意や意識が向けられるということが何を意味するのかということです。もちろん、参考意見として、謙虚に人に相談することまでも排除するものではありません。

 

 体験をとおして獲得できたものは、そのまま自分自身の人格を陶冶し、思考を練磨し、成熟させ、未開拓の理解の領野を切り拓く実質的な(こや)しとなります。その結果、自己への信頼というものが残ります。たとえその途上で失敗したとしても、です。そうすると、ますます自恃(じじ)、つまり自らに恃(たの)む、仮にもし人に相談を求めたり、何らかの参考情報を取り入れるにしても、基本は独立自尊と自助努力の精神をもって事に当たろうとする、という態度がますます根づいてゆくことになるでしょう。

 

 しかるに、そうした過程を経ることがあまりに少ない人生を歩む選択をしている人間はどうなるでしょうか。もうわたしがここに書かなくても、現実の社会で起きているさまざまな事象を思い出し、参照するだけで、賢明な読者諸氏は、思い当たることが沢山あることでしょう。

 

 

 学習できることとできないことがあります。塾に通う子たちは、何もかもが学習で得られ、その成果をもって人間が評価されることに慣れ、学習は経験や思索よりも価値があると思いこんでしまいます。経験の豊かな子、思索力の深い子、強靭な思考力や柔軟かつ自在な討論をリードできる能力を備えた子がもっと評価されればよいのですが、そういう社会になっていない、という日本の現状があります。

 知識はYouTube動画を視聴することをつうじ、身につけることができるかもしれません。でも、人生のあらゆる試練を乗り越え、哀しみも喜びも味わってゆくことのできる人間存在というのは、肉体の頭脳だけではなく、生命の本源である霊と、肉体と、その霊と肉体とを媒介する魂と、この3つから成る存在なんですね。ですから、トータルに人生に関わろうとしたときは、やはり問題というのは、単に知識によって解決すべきものというより、むしろ自分自身の理解を深め、強くするための大切な機会であるという捉え方ができますから、安直にポンと答えを得てお終い、あとは楽しいことだけやろう、というんではなく、思考も感情も使って、時間をかけて取り組んでゆく。そうすると、自己との対話、人との丁寧なやりとりなんかをつうじて、思索を深めながら、それまでのセルフイメージや人間観、社会観、宇宙観なんかも更新してゆけるだけの余裕、ねばりづよさ、弾力性、柔軟性が養われてきます。

 

 

選曲: 言海 調

 

 そうなんです。鍛えられていないと、本物の自信がつかない。脆弱になる。モロい。その脆弱さを自分でもわかっているからこそ、また変なプライドが温存されているからこそ、ますます勝負することから逃げ、自ら考えることを放棄してしまう。

 本来は、自分自身が自己の生命の主権者であり、自己の人生を演じる主役であり、脚本家であり、監督であるはずなのに、なぜだか国の言うなりになり、誰かの言うことをまともに鵜呑みにして(そうすれば、苦手な自己と向き合うこと、考え抜くことをしなくて済むから)、自分でない自分を()ってしまっている。ヤラサレてる……!なのに、このことの異常事態性に気づかない。

 

 これはもちろんY世代、あるいはもっと若いZ世代が全員そうだというわけではありません。むしろこれは一種の比喩だとおもって読んでいただいたほうがよいとおもいます。

 

 誰もがセルフイメージというものをもっています。わたしも例外ではないとおもいます。これが案外と曲者(クセモノ)じゃないかとおもっています。それは人がセルフイメージというエレメンタルを造り、それを自己愛や利己的な欲望を満足させるためにjuiceをあたえてくれる観念として、エレメンタルとして、温存していることが多々あるからです。今の社会はこれを利用している商売が沢山あります。SNSというプラットホームの使われ方がこの傾向性に拍車をかけています。

それこそ悪魔側にとってつけ狙う隙を提供してしまう格好の脆弱なメンタリティーの基盤になっていることには注意を向けておく必要があろうかとおもいます。

 

  自己内省。これほど強力な防衛手段はありません。「私が私である」という確固たる自己意識。エゴイズムに染まったエレメンタル、想念の曇りや濁りの一つもない(あっても気づいている、意識の光が常にあたっている)混じりけなしの澄んだ自己超意識こそは、(ダーク)(サイド)に落ちるように誘惑してくる存在たちによるサイキックなアタックへの鉄壁の守りになります。

 

 今の時代は、フェイクニュースといわれるものや、クローン人間というテクノロジーによって本物が消され、ニセモノへのすげ替えが行われているといった情報が流れてくるなど、何が真実で何が嘘かもわかりにくい状況にわれわれは陥れられているような感じがしている人も少なくないでしょう。

 そこで、情報に翻弄されないようにするには、どうしたらよいか。少なくとも確かなのは「この私」であるはずです。しかし、それさえも乗っ取られてしまう可能性があります。それは他人や社会にたいしてだけでなく、自己にたいしてもあらゆる種類の決めつけや固定観念をもっているときです。「これこそが俺(あたし)なのだと、思考と自己同一化する習慣に気づけていないと、「俺はお前だ」と、ささやいてくる悪魔的存在にやられてしまいます。つまり、この場合の「俺」とはよからぬ思念(エレメンタル)のことで、その思考の主は「お前だ」と言われて、つい「俺はこんなこと考えているんだ」と、錯覚に陥らされてしまうのです。このトリックが見抜けないとダメです。「お前は私ではない」「お前はお前、私は私だ」と、言って返すことができ、「私は私であるところのものである(I am that I am.)」と言えるためには、常に自分が同一化しそうになる想念にたいして、「なぜ」そうおもうのかと問い、その動機が見抜けるほどに意識が目覚めている必要があります。

 

 敗北を喫しないためには、常に縦のつながり、バーティカルな(垂直方向の)次元に意識をつなぎ、高次の世界、存在のほうに周波数を合せることです。五官の門を閉じて、自己の内側に完全に入る、といってもよいでしょう。

 

 もっとも研ぎ澄まされた高次の意識にチューニング(アチューンメント)できてはじめて高みまで昇ることができ、あちら側の画策を看破できますから。でないと、水平次元に意識がもってゆかれて、横波を受けます。「邪(よこしま)な」という形容は、まさにこの横のつながりをつけてしまうことです。横行、横変死。ろくな意味はありません。(というと、横という言霊にたいし、不敬になりますか。ヨの言霊、コの言霊に幾つもの法則があり、単純ではないことを附記しておきます)

 

 あちらは、いつも光のワークに貢献できる者たち同士の結びつきを妨害しようと不和や分裂をもたらすよう常に虎視眈々と狙っています。そうした存在がつけこんできやすくなるスキや条件をあたえてはいけません。それには先に述べたセルフイメージというエレメンタルに注意する必要があります。現在の地球人の意識進化のステージでは、自分に巣食うエゴイズムを温存させ、それに栄養をあたえるため、「こうありたい」というエレメンタルから構成された偽我の自己像を偶像崇拝のように据えて自己を欺いておきたい欲望が多かれ少なかれ誰にでもあります。これが機雷(または地雷)となって、(掃海艇で除いておけばいいのですが……この自己内省ワークを行うことができる人が少ないために)これに触れたときにどうしてもギクシャクしてしまいます。つまり自己防衛本能が働いてハートを閉ざしたり、それで相手は刃を向けられたかのように錯覚して傷ついてしまったりという悲劇が起きてくることになります。(それも自己を見つめる機会として使えばよいでしょう)そうしたことも含めてわれわれの弱点を闇側は知り尽くしていますから、その罠にかからないためには、あらかじめ不安や虚栄心といった自己の警戒すべきエレメンタルをよく見て非活性にしておく必要があります。協力関係におけるほとんどの問題は、こうした部分を自己管理しきれていないことに起因することが多いので、ここは重要ポイントになるとおもいます。

 

 

  さて、受動的に情報を外から自己の内部に摂り入れ、垂れ流されるままにしておくなら、しだいにそれぞれの人の魂のコアに備わっているはずのすべてを知っている部分、真我を見失い、虚実紛々の情報に翻弄されて、何も信じられなくなって、ただ懐疑的になり、近視眼的になり、本質的な解決とか、理想を具現化してゆく努力とかに向わずに、姑息な対応に終始するように知らぬまに飼い馴らされてしまうキケンに陥りかねません。なぜ、ワクチン打っちゃいけないのか。シェディングは、本当に自分には関係ないのか。いくら知識を仕入れても、YouTubeで人から聞いて情報を知っても、それを自らの思考を使って考え、正しく理解し、意味をつむぎだして、事の重大性を認識し、自分の感情が納得しないかぎりは、魂が打ち震えるくらい今世界で重大な事が起きているんだってことを経験しないかぎりは、選択や生き方は変わりません。当然すぎるくらい当然のことです。それは人間存在が前述したように、肉体の上にただ脳みそが搭載され、記憶データが詰まっただけの存在じゃないからです。

  われわれは思考様式から行動様式まで、飼い馴らされた羊人間になろとしている。おまけにナノテクノロジーとバイオテクノロジーにより、個人認証という名目のもとマイクロチップを体内に埋めこまれ、AIに管理されようとしている。一昔前にSFで描かれた悪夢はもはや現実化しようとしています。

 

  そうならぬためにも、情報を受け取って、知ってお終いにするだけにとどまらず、長年つちかってきたテーマにそって思索すること。これが何にもまして大事かとおもいます。誰か心をゆるせる相手と語り合ってみること。そうした純度の高い明晰な思考を介して、悪意のもとに流されている情報(ありもしないものへの恐怖を煽り、不安を昂じさせ、国と国、あるいは宗教間や民族間の対立を激化させる偽情報や洗脳情報などを含む)も浄化のフィルターを通されることで、この社会をよりよくし、幸せに生きるための指針とすべき自らの思考の産物に力をあたえてくれる純化された必要な情報だけとなります。

 

  塾世代のキケン性を憂う気持ちの中にはこうしたことがじつはあるのです。わたしは、元来、世代論というのは嫌いです。もっとも嫌いなテーマの一つかもしれません。でも、敢えて今日は、これについて考えたことを書いてみることにしました。あるブロ友の記事に触発されたことがきっかけとなったということですが、わたしととても実りある対話をしばしば行っている彼が書いてくれたことが、わたしの興味を呼び起こして、この記事を書かせたということはぜひここに書き残しておきたいとおもいます。

 

 

◇参考資料