七月の誕生日とともに迎えた お盆を過ぎても

まだつぎの八月の旧盆を 迎えるまでは

この季節特有の フワフワ感がある

 

霊界と肉体界とが 透け透けの絹のカーテン一枚で隔てられ 

互いに浸透しあっているかのような

そんな幻想的な感じが つづいている

 

 

近頃は うだるような猛暑も手伝ってか 

ともすると 寝ている間のわけのわからない夢と

白昼の時間が 混交して 

 

これも あの世とこの世みたいに 

等価になってしまってる感も

あるかもしれない

 

他界して八ヶ月以上たつ母への見方は そのときどきで 

変幻することが わかってきた 死んでいる人と 生きている人の違いは

結局 「時間の差」にすぎないのでは とも感じはじめている 

 

誰もが 進化途上にいる この地上で肉体をもち 経験を積み 学びをつうじて

魂は 幾転生も重ねるうち 欠点や短所を克服して しだいに悟り 神に帰ってく

ダスカロスは言う ロープの端(始端)と 端(終端)をつかむことだと 

 

本当だとおもう それが マスターできたなら

どんな人をも 愛せるのに たいていわたしたちは 近視眼的に見てしまうため 

人を見て ほんの短い時間だけ切り取って この人はこういう人間 と決めつける

 

 

1年のうちでもっとも 死と生 影と光が 交錯して コントラストが強まる八月 

むんむんする 草いきれと 陽射しの強さが 鮮烈な八月 

そんな八月の記憶は 魂になっても ついてくることだろう

 

まだ八月になっていないが この季節には決まって 

1年前 なにを考えていたろうかと気になり 過去に書いたものを読み返す

今夜は 2年前の今頃のブログ記事を なつかしく読み返し 音楽に耳を傾けた 

 

 

(以下は、2021年7月24日の記事『静かな地球の上で』の再掲になります。)

 

静かな地球の上で 

 

 

 

 母はいまやわが家のピースメーカー。そして人気者。

 

 とぼけたようなことを言って、その場にゆるんだ空気をもたらしてくれる。だが、そこには何の作為もないし、とぼけてるのでもなんでもないことも知っている。

 

 きのうも、ポータブルトイレに腰かけたかっこうで、ちょうど真向かいの位置にある木の台に座らせているテディベアにたいして、「これ生きてるんでしょう?」と、真顔で質問するから、「そうね」と、クリアな回答を伝えた。突飛もない発言にこちらが戸惑うこともなくなった。

 

「ぬいぐるみみたいね」と、垂れ下がっている足を愛おしそうに見ながら言った。 

 

 

 

 

「話せるかしらね。ちょっとしゃべってみたいな」ものすごく胸をときめかせて母がそう言うのを聞いた。まるで少女のようなういういしさに、こちらも新鮮な気分になって、そうすることを勧めた。 

「なにしゃっべてもいいの?」

「いいよ」

「握手できる?」

 ぬいぐるみのタローちゃんを母に近づけてあげる。

「あらららら・・・握手した」

 ア・ク・シュ、ア・ク・シュ・・・と、母は拍子をとって愉しげにタローの手をにぎって二度三度とシェイクした。

「タローちゃんも喜んでるよ」と、言うと、「喜んでる?」と素直に同意する母。

 

 

 30代の頃、予備校講師をしていたときがある。ほとんど話さない、でも微笑みだけで語る浪人生の男子生徒になぜか好かれ、授業が終ってからもついてきた。ふたりで渋谷東急プラザ(2012年に現在の東急プラザ渋谷に改称)に寄ると、大きなテディベアに出会った。目と目が遭った瞬間、欲しいと思った。「買ってもいいかな?」と、男の子のほうを見て言うと、黙ってうなずいた。とても恥ずかしそうに笑みをうかべてー 

 そして、タローちゃんを抱きかかえ、むくむくとした毛並みを感じ、レジーに行って会計を済ませ、大きな大きな袋に入れてもらい、男の子と別れて、タローちゃんを家に連れ帰った。それが始まりだった。

 

 母はうれしそうな声をだしてタローのむくむくとした手をにぎり握手をかわした。

「語りかける?」と訊くと、「語りかける?うん。語りかけたい」と、素直にこたえる。

「なんて語りかける?」どんな第一声となるのか。楽しみな気持ちで待つことにしよう。そう思う間もなく、

「きょうは、あたたかいわね」ごく自然な調子で語りかけた。二三日前はばかに寒かったわね、というのだが、そうだったっけ、と気温に敏感な母ほどには、寒さを感じないわたしは、思ったのだが。「この人たちから比べても・・・きょうは、あったかいね」と、もう一度呼びかけた。

「あったかいよー。気持ちいいよー。そう言っているよ」

「そう、それならよかった」

「でね、安心してます、って」

「安心してる?じゃあ、いいわ。じゃ、またねー」

「またね。いつも見守ってるよ、って」

「あ、そぉー」と、うれしそうである。

「いつもここにいるからね、って。

「ずーっと、見守ってるよ、って」

「見守ってるの」

「なんかあぶないことがあったら、おしえるよ、って」

「ああ、そぉー」と、トーンが上がる。「おもちゃがおしえてくれんの」と言いながらも、母には少しの疑いの念もない。おもちゃも本物の動物もおなじ生きた命なのだ。

「抱っこしよう。抱っこできんの?」「抱っこできるよ」「あー、そー」抱っこしながら、「かわいいね。あんた、かわいいね」と、母はぬいぐるみのタローに向かって話しつづける。

 

「きょうは、あたたかいわね」という単純な語りかけの声から、とてもあたたかく親しみをこめたエネルギーがあふれ出しているのであった。

 まったく感情がピュアで濃い。なんだかアストラル界みたいだ。向こうでは、感情が原液になるから。その現れ方も強烈でディープになる。というのをしばしば夢の中で味わっている。         

 

 母から奇想天外な発想がいつ飛び出すか。いつでも大歓迎。

 窮屈な世界にあまりにも長く居すぎたのかと気づかせられる。開放の喜びすらある。

 

「ありがとう、って。こんど夢に出てくるよ、お礼を言いに、って」

「ああ、そう。ここにね、いちばん最初に来てね、ぱっと座った時に、目と目が逢ったの。そんときに、泣きそうなような、笑っているような目をしたわよ。それから目つきが変わったわよ。びっくりした。それからはね、あたしも毎日この人のことを想うようになったの」

 それで思い出した。いつだったか、テディベアのお目々に毛がかかって、隠れた分、悲しげな目に見えるといって、指でなおし、もとどおりのまんまるな目があらわれるようにして満足げだったことがあった。

 

 

 

 実と信じられているものにまったく、実がなく、

 虚と信じられているものの中に実がある。そんな世界もあるわけだ。

 

 たぶん最初から適応なんかしなくてもよかったのだろう。四角四面のつまらぬ世界に無理に合わせてきたのかもしれない。そう思うと、じぶんがかわいそうで愛しくなる。

 

 そういえば、幼稚園の先生から、「お宅の子は知恵遅れと言われたことはありませんか」と、たずねられてショックを受けた話を母から聞いたことがあった。ぼうっとしていたのだろう。白昼夢を見るようにー

 集合写真を見ると、一人だけよそ見していたり、他の子が口を結んできびしい面持ちだったりするのに、一人だけ笑っていたり、片足をピョコンと地面から跳ね上げてたり、胸の前の額入りの卒園証書をかしげていたり。

 

 この地球の三次元物質界に生きるには、なかなか困難だったろう。よく生きてきたと思う。

 それも両親をはじめとするさまざまな人のおかげがあり、自然のめぐみから見えない存在の助力まで、数々の恩恵とお守りに支えられ、今日まで来れたことだろう。

 

 母の生きていてくれるおかげで、また人生を、地球社会を、人類を、新たな視点で見つめなおせることに感謝が湧いてくる。

 

 

 

 

 きのうの朝はまた、うつくしい瞬間が降りてきた。

 

 「この場所は施設でしょ」と母が言うから、「ちがうよ自宅だよ」と、いつものように一生懸命に伝えていると、妻が来て、「この人誰ですか」と、ぼくを指さして母にたずねた。するとしばらく考えてから、母は「もしかすると、息子かしら?」と、こたえたものだ。「そうだよ。マイサンだよ」と、応じると、

「あたしのたったひとりの息子!!」と、顔を輝かせ叫んだ。

 つぎの瞬間、お互いに抱擁し合っていた。抱擁しながら、母の発した一言は、「マイブラザー」。はぁ❓

 

 そばにいた妻が、「じゃあ、お母さん、わたしは誰ですか」と訊ねると、

「ええと・・・」すぐに出てくるときもれば、出てこないときもある。「○○ちゃんですよ」本人が助け舟を出した。

「あー、知ってる。ずーっと、古くからよく知ってる」

「そう、マイワイフ」と言うと、手をぎゅっと握って、「あー、あなたがお嫁さんなのね。よかったー。これからもずっとよろしくねー」と言った。

 

 そう。宇宙創造神の御前にあっては、すべてのひとは、ブラザー&シスターであることには変わりはない。それもこの地球であろうと、他の星であるとを問わず古くから旅をしてきた永遠の魂同士として。

 

 数日前も、寝る前の準備が終わろうというとき、突然母の口をついて出た言葉は、「一人(っ子)で寂しくはなかった?」そして、たった一人の息子だけれど、いい息子だった、ありがとう、と母から言われた。いや、ぼくのほうこそありがとう、と返していた。いつその時が来るのかな、と母。いつかお別れの時が来る。必ず。そう言われて、ややうろたえながら、返す言葉をさがした。そしてやっとこう言えた。 

「でもたくさん話してこれたね」

「そうね、たくさん話せたわね」

 ややあって、母のほうから、またどこかで逢いたいね、と。思春期から青年期にかけ、親との関係、とくに母親とのあいだのさまざまな心の葛藤に苦しんだ。それも泡沫(うたかた)のように、大いなる光のなかへ消えていった。

 そして、あとに残ったものは・・・。ある日、一つの命が天使に守られながら地球に降り立って以来、生き抜いてきた光芒だけが、見えた。

 

 

 多くの人々の目をくらましながら想いを果たそうとする者たちの不穏な動きのある地球。闇に葬られた尊き命。おぞましい秘儀が執り行われ、あくなき欲望と野望はつづいてきたけれど・・・・・・。

 悲しみや怒りや恐れや憎しみなどネガティブなエネルギーがまだ噴き出し渦巻いている地球。

 

 その一方で、静かな地球がある。平和で愛と調和に満ち、天国と地上をつなぐ帯状にゆらめく光のカーテンがあいて金色と紫に輝く階段を昇降する天使たちの歓喜が未来の予感をもたらしている地球がある。

 

 それもこれもみんな想いの世界にすぎない。幻影なのだ、すべては。

 幻影を幻影と知らず、信じたものに力をあたえてしまう。もっとも堅固と思われている物質さえもが、想いを投影され、あたかも永遠に存続できると信じられているだけ。

 

 一念三千と仏教でもいわれる波長の異なる世界がこの宇宙にはある。

 ダイヤルを切り換えれば、どこへでも行ける。

 

 もちろん、干渉はある。妨害はある。光の世界をひろげていってもらっては困る存在たちが、あれこれと画策している。虎視眈々とねらっている。

 内部分裂。不安。猜疑心。憎悪。ネガティブな感情の波を人間のアストラル体に起こさせようと、その人その人で異なる弱点を衝いてきても、ひたすら意識を高い世界に向けていればよい。

 

 全天の中心に輝く北辰(北極星)。心星(しんぼし)とも呼ぶこの星を中心に星座がめぐっているように。あらゆるネガティブなエネルギーも闇も、全宇宙の中心から奏でるハーモニーと光へと変えてしまえるポイントに意識を合わせていれば、悪といわれる想いの蠢動も不要なものもすべて消えてゆくから。

 

 そして残るのはただ静かな地球、あたたかい、安心に満ち満ちた、いきいきとしてつねに創造がおこなわれている地球・・・それだけが本当にある世界につながっていることを、わたしたちは知っている。

 

 

🔸Facebookへの投稿文🔹

 

 ゆうべというか朝方の夢でまた母が登場した。◉クチ◉を打ちつづけている友人が人の集まる会場の自分よりもだいぶ後方にいるが、車椅子に乗っかっている様子で、具合が悪そうに姿勢を崩していて、息苦しそうに息を喘がせている。その時、すでにこの世にはいないはずの母が現れて、彼のほうへ歩み寄り、しきりと呼吸のしかたを教え、息することを促そうと助けている。母は生きていたのだ…!! この驚き。この喜び。この衝撃は、夢の中でもう何度となく体験し、覚えこんできている感覚である。もしかしたら、彼は肉体を離れたかもしれない。目が覚めてからそんなことを考えた。

 同時に、障がいのある子たちを学校で面倒見、教育する仕事をとおして、彼が今生でやると決めてきたテーマを完遂するためには、危険性も承知で◉クチ◉を打ちつづけなくてはならなかったのだろうか、ということに初めて気づいた。このことでは何回か大喧嘩している。こちらの忠告にたいし、彼から返ってくる言葉は、全然受け容れられずに二人の噛み合わなさを大きくするだけで互いにいつも激昂しあって終わった。それでも、決定的に関係が壊れることもなく、中学以来の旧友同士としてつづいているというのは、過去生までも考えないと説明しきれないだろう。とまれ人はそれぞれ自分で決めてきたテーマに取り組み、成し遂げても、成し遂げなくても、いずれ肉体を離れて命の本源の世界に帰ってゆかなくてはならない。母が亡くなってから後に、「人生券」という語がひらめき、みみっちいけれども、限りなく愛おしい「人生券一枚を握りしめて」というイメージを念頭において、自分の道を歩き、人の人生を見る場合でもその観点から眺めるようになった。

 己自身のなすべきことに専心して、他人の事も尊重できる人間になりたい。2年前のちょうど今頃にどんなことを考えていたのかとおもって、昨夜は過去のブログ記事(母の介護をテーマとした)を改めて読み、冒頭に文章を書き加えて再掲した。今朝の母の夢はそれと関係するのだろうか。