イルミナティの私たちに対するマインドコントロールの目的は、私たちの神懸りの能力を破壊すること、私たちの大宇宙大自然との共感、共鳴、共振、感応の能力を破壊して、私たちを、爬虫類的脳の次元に完全に封印することである。

 爬虫類的脳とは何か。

 その根本的特性は「無情」であるあるいは、「情」がきわめて弱いこと、である。それは、恐怖する、いつも(おび)えている。それは縄張りに固執する。

 

 

 この文章につづけて、数学者の岡潔先生が指摘した内容が紹介されています。

 それは、哺乳類と爬虫類の違いに触れて、哺乳類においては出産後の一二年は母親がつききりで赤ちゃんの世話をしなくてはならないために子どもとの間に濃密な「情」が生じたことを挙げ、この点で爬虫類とは情の発達において決定的に異質な方向へと分化したということです。

 

 また、こんな文も見られます。

 

 世界は多次元的無限であり、我々はイルミナティによって、その中の特定の一つの次元=周波数の牢獄に閉じ込められている。

 

 ではこれを書いたのは誰なのか。

 

 じつはここまでの引用のすべてはある本の「解説」の一部なんですが、書いた人は「石神龍」となっており、太田龍氏が書いたのは間違いありません。(アマゾンのブックレビューでも同じ受け取り方をしている読者の感想が見られます)今から十三年前のことです。「平成十九年六月三日 記」と名前のあとに付されています。西暦にすると、2007年。

 

 ちなみに、太田龍氏(検索すると同姓同名の人が出てきてしまうためか、「太田竜」という表記をウィキペディアでは前面に出し、龍の名を併用している)の歿年は、2009年(命日が五月十九日 享年七十八歳)になります。

 

 

 同年の2009年623日に、わたしは友人から代理で出席してほしいとの要請を受けたことにより、『“永遠の革命家”太田龍さんを送る会』に出るために市ヶ谷の会場に出向くこととなりました。生前この方にお会いしたこともあり、書かれたものにも接していましたが、この思想家にさほど傾倒していたというわけでもなく、追悼会に出席する運命にまで至ったこのご縁はいったい何に由来するものであったのだろうと今日まで(いぶか)しくさえおもっていました。

 

 

 ところが、つい何週間か前のことです。

 

 部屋を整理していたというより探し物をしていたおりではなかったかとおもうのですが、先に紹介した文章のコピーが出てきたのです。そして、それを読んで改めてこの方が最後に何をめざしていたのかがわかって、これまでのことも偶然ではなかったのだと確信するとともに、自分がなぜこの思想家とご縁があったのかがやっと腑に落ちて、奇しきご縁と感じられるようになったのでありました。

 

 さて、先に掲げました抜粋文ですが、太田龍氏が「解説」を書いている本のタイトルは『竜であり蛇であるわれらが神々』(徳間書店 2007年刊)で、著者名は、デーヴィッド・アイクです。

 

 近年、「レプティリアン」「爬虫人類」ということがよく言われているので、目にした方は少なくないとおもいますが、この言葉が世に広まるきっかけをつくりだした人物でもあります。しかし、この語のルーツがどのへんにあるのか意外と知らない方が多いのかもしれません。

 

 それではどうしてわたしが太田龍氏とは並みならぬご縁だったのかと改めて感じたのかという話になりますが、結論から申せば、解説文の終りに、こう書いてあるからなのです。

 

 本書『竜であり蛇であるわれらが神々』の要点は、要するに、言霊ことだまの問題である。正しい、真実の、真理としての言霊ことだまをもって悪魔の言霊を批判し、超克していくことが問題である。

 したがって、日本人たる我々には、太古以来の日本語の言霊をもって、アイクのデモノロジー=イルミナティ・悪魔の言霊(げんれい)に対する批判を参考にし、それを完成させることが求められているのである。

 

 

 太田龍氏がデービット・アイクの本を翻訳紹介したり、解説者となっているのは決して偶然ではないでしょう。二人ともどんなにか新しい世界が訪れることを魂の底から願ってきたことであるか。生前お会いしただけでなく、太田さんの書かれたものも読んでいたので、ひしひしと伝わるものがありました。太田さんとアイクは、日本人と英国人との差異はあっても、魂の希求するものは一つであると感じます。

 

 「解説」は、「下層労働者階級出身の真実告発者」という見出しについで、つぎの一文ではじまります。

 

 幕末、開国と同時に、日本は、イルミナティサタニズムの総本山としての大英帝国に、事実上、占領された。

 

 ここに使われた「サタニズム」という言葉も、「悪魔崇拝」という訳語を付されて最近よく目にするようになりました。では、西洋社会のどこが悪魔的であると考えているのか。

 

 過去六〇〇〇年、西洋の歴史は奴隷の奴隷主に対する反乱によって満たされている。そして、まさにその西欧史の核心について、日本人は完全に無知のままにされ続けて来た。

 

 

 西洋社会の歴史をたどれば、「サタニズム」と称せられる考え方の淵源にさかのぼるのは容易なはずですが、にもかかわらず日本人はわかっていないとは、いかにも不思議な感じをあたえます。しかし、「無知のままにされ続けて来た」というのが事の真相とすれば、ちっとも不思議ではなくなります。

 

 日本人がこんなにも、地上には想像を絶するほどの悪辣で極悪非道な行為を良心の痛みもなく平気でやってのける人々がいるのだという事実に直面することを恐れ、本当のことを伝えるメッセンジャーにたいしては、「また『陰謀論』かよ!」と口癖のように言って一笑に付し、まるでそうした態度をとることが常識人であることを証し立ててくれるかのように、真相を究明しよう、真実が知りたいと願う人々を嘲(あざ)笑い、「陰謀論者」の烙印を押して澄ましていられるのは、なぜなのかが、上述した事柄を参照すれば、すぐにわかります。

 

 日本人の知らない奴隷制階級世界とはどんな世界であり、どんなエレメンタルが息づいている社会であるのか。太田氏はこう述べます。

 

 大英帝国が人類史上、異様なまでに完成されたカースト制、つまり何百年にもわたって強固に確立された身分制階級国家であることについて、日本人に何一つ、まともな知識情報が提供されたことはない。

 

 そこで、太田龍氏は、英国に存在する三つの身分制階級に関して、つぎのように解説しています。

 

 その第一は、上流特権階級、または支配階級。

 第二が、中流階級。支配者に奉仕する知識人専門家の階級。

 第三が、下層労働者農民階級。

 

 そして文化の担い手は、上流、中級階級が担っている。下層労働者階級の様子は、ディケンズの作品(『どん底の人々』)を読めばわかると添えています。

 

 こうした露骨な差別を行い、階級社会の仕組みを維持し、しかもしだいに奴隷制を個々人のメンタリティーにまで内在化させるべく、洗脳工作を進めていって、最終的に人間のロボット化、AIとデジタルの支配する社会に移行してゆこうとたくらむいわゆる「世界人間牧場計画」というものを成功させるのには、どうしても「秘密結社」が必要になってくる、ということを、太田龍氏は何も知らない日本人に教えてくれています。(もはや故人ですので、有難い〈置き土産〉として。今は天界から見守り、指導してくれているとおもいますが……)

 

 ところで、アイクは三番目の労働者階級の出身です。太田氏はつぎのように述べています。

 

 デーヴィッド・アイクと言う人物の本質。

 それは、アイクにおいて、西洋の歴史上、初めて奴隷が奴隷主に対する反乱を貫徹し切ったこと。そこに求めることが出来るであろう。(中略)アイクは発見した。西洋における奴隷支配が究極的には奴隷の家畜化、家畜人化を目標としているという真理を。奴隷の奴隷主、奴隷制に対する態度は、アイクによれば、四つの次元に区別され得る。

 

 第一の次元は、従順な(シー)人間(プル)になり切ることである。これを奴隷の平和、奴隷の平安、と言う。もちろんほとんどすべてのどれがこの次元に終始する。

 第二の次元。ここでは、奴隷は奴隷主と奴隷制度の個々の圧制に対して怒り、反発し、抵抗する。

 第三の次元。ここにおいて、反乱する奴隷の最も優れた人々は、奴隷制度の構造全体を俎上に乗せ、この体制を奥の院で、またはるか雲の上で操作する陰謀集団の存在を発見し、それを告発し、それと戦うべきことを理解する。

 第四の次元。ここは未だ誰も到達しえていない。前人未踏の領域である。したがって、反乱する奴隷にもそれは分からない。それは何か。それは、五感を超えた霊的次元の世界において、奴隷と奴隷主の関係、奴隷制度に対する批判、そしてその廃棄でなければならない。(太字強調は引用者による)

 

 

 すでに引用した「世界は多次元的無限であり、我々はイルミナティによって、その中の特定の一つの次元=周波数の牢獄に閉じ込められている」という文で、わたしが思い出したのは、このブログでも少し前に紹介しましたグレゴリー・サリバンさんが、『ホログラム・マインドⅡ 宇宙人として生きる』という本の中で指摘しているNAA(ネガティブ・エイリアン・アジェンダ)でした。

 五千年前に起きたアヌンナキによる人類の遺伝子操作。アヌンナキとは、二ビルという惑星から来たアルコンネットワークの宇宙人の一種とされます。この存在のおかげで、地球人類は超感覚的な認識ができないようにされてしまったばかりか、好戦的な〝戦争人間〟になってしまったと、サリバンさんは言っています。

 

 

 

 ところで、太田龍氏は、どうして日本の言霊に希望を見出したのか。

 

 まず、氏は、地球に人類が誕生した時点で、人間は大自然との一体化をとおして共感し、感応するという体験によって、原初の文明の「さとり」を得たのだと説きます。それが人間に最初の「ことば」をもたらすことになった。そしてそれが感嘆詞であり、感動詞だと、展開してゆきます。

 

 そして、それら言語が母音の響きをもって現れたことと、母音が優勢なのが日本語であるという観点を結びつけて、「さとり」の正統な継承者が江戸時代までの日本人だったと述べています。

 

 たしかに、大宇宙、大生命、大自然との一体感を味わう体験をつうじ、歓びの感情がほとばしり出、その時に発せられた音が霊的に高い次元と感応することになったということは想像できます。

 

 また、南太平洋の西サモアの首長のツイアビの演説集『パパラギ』の原注が引用され、サモアの村の人々がよく集まって遊んだり、踊りを楽しんだりし、夜になるとどの小屋からも歌声が流れると前置きしたうえで、「この歌声が美しく聞こえるのは、ここの言葉が母音を多く含むからというだけでなく、島民の音感の稀に見る鋭さのためでもある」ということが書かれてあります。

 

 また、日本人の脳が、南洋の島民と同じく、虫の声や鳥の声、波の音や風の音を、雑音としてではなく、意味ある「ことば」として聴きとる能力をもっていたこと(このことを発見した角田忠信教授の説を引いて)を指摘しています。

 

 太田さんがこの「解説」で言いたいのは、アイクには限界があったということです。それは本当の東洋を知らないから。

 

 イルミナティ秘密結社に取り憑かれた西洋と西洋語の背景には悪魔学(デモノロジー)がある。それにたいして、日本には太古以来の言霊学があり、これこそは真理の言霊であって、これをもって悪魔の言霊を批判し、超克してゆけるかどうか、そこが問題だ、ということを太田さんは述べています。

 つまり、奴隷制を存続させてきた秘密結社に牛耳られてきた西洋社会の不幸の本質を見抜いたアイクは、正しくこの点を明らかにし批判しながらも、この問題を完全に克服するにあたって、本当の東洋を知らないがゆえに、限界があるとして、彼の「悪魔の言霊に対する批判を参考にし、それを完成させること」が、日本人には求められているのだと言って、「解説」を結んでいます。

 

 

 

 わたしは、言霊学に関しては、たまたま若い時に出会った山口志道による影響が大きく、もっぱら志道の「五十連(いつら)」(言霊五十音)の音の成り立ちと法則(のり)を勉強してきました。

 

 冒頭に引用した文で、爬虫類的脳の特質として、「無情」ないし「情がきわめて弱い」という指摘がありました。

 

 普通に考えれば、「無情」なら、感情がない、冷たい、という意味に行きますし、「情がきわめて弱い」なら、やはり「情に厚い」の反対か、と考えます。つまり、漢字を見て、概念がすぐに思い浮かぶといった思考が働きます。

 

 わたしはそこで、「ナ」という音には、いくつもの法則があり、この場合そのうちの「和」が適応するという直観が来ます。

 

 そして、「サ」もいくつも法則があるうち、「細かい、小さい」が、「ケ」においては、「差別(けじめ)」が、最適だと判断します。そうすると、それらの各要素をつなげてトータルに見て、さまざまな細かい区分や小さな差異というものがあるにもかかわらず、それらのすべてを大きく包みこんでしまうほどの包容力をもって、「和する」、「和らげる」というのが、「ナサケ(情け)」の言霊的な解釈になるだろう、という答えが出ます。

 

 そうすると、「あの殿様は情け深いお方」とか、「情け容赦ないよな、今の世の中って」とか、「武士の情け」とか、というときの情けとは、普通考えられている以上に、道理にかなった(ということは自然の摂理にも沿っていると考えられる)「理性的な感情」ではないのか、ということに気づかされます。「情に厚い」「情にもろい」というのとはニュアンスがだいぶ異なるのでは、とおもうのですが、いかがでしょう。

 

 義理人情というと、とても古い、封建時代の名残みたいにおもわれてきて、涙もろい人を浪花節の世代とかと評してきた節が日本の戦後にはありましたが、情けがよく描かれていると感じられる『男はつらいよ』の映画なんかを観ても、じつは「情け」には、日本人の高貴な精神がほとばしり出、にじみでているのではないかという気がします。そういえば、『砂の器』に登場する丹波哲郎(警視庁捜査一課警部補役)が犯人の説明を捜査本部で行う場で感極まってハンカチで目をぬぐう場面がありました。⇒〈クリックすると砂の器シネマコンサート2022動画で観られます。6分45秒あたりから〉世に謂う温情刑事という言葉を思い出します。当時の邦画はまだ「情け」のオンパレードの時代でした。(本記事末尾「参考記事」有り〈大魔神〉の動画も観られます)


 太田さんの言われる母音と感動詞に日本語の言霊の力を結びつけて考えるところは、正直どういうことなのかな、とまだよくわかっていないのですが、イメージとして思い浮かぶのが、一昔前にテレビでも放映されていた『まんが日本昔ばなし』です。市原悦子さんと常田富士男さんが声優をつとめていました。とってもゆっくりと、一音一音をはっきりと発音し、しかものんびりとしたおおらかな雰囲気をかもしだしていましたね。日本語の特質がよく出ていたとおもわれるのは、語尾の母音の響きが耳に残る感じです。

  試しに子どもに絵本を読み聞かせるようなつもりで、あるいは囲炉裏端で昔語りをするおじいさん、おばあさんになったつもりで、発声してみると、言葉が生き物のようにいきいきとして、イメージも湧きやすくなります。母音優勢の母国語って、ああいうのかな、なんて個人的におもうのですが、どうでしょうか。感性の問題。耳の問題。発声器官の問題。そして脳の問題もあるでしょう。とにかくいい周波数を出してるとおもうのですが。結局、その周波数帯域に合せられるかどうか、ということですね。

 

 そして太田龍さんの説で大いに共感できたのは、人類が大宇宙・大生命・大自然と感応し、共感する歓びをもって原初の「文明のさとり」を得たこと、そしてそこが「ことば」の発祥であり、起源であるとする見方です。

 

 

 ここでまた思い出すのは、秘密結社イルミナティの総本山とされる大英帝国すなわちイギリスに生を享けた作家のジョージ・オーウェルです。あれだけのディストピア小説を書き、人類に人間の業の姿を暴いてみせてくれた作家です。

 

 人間の業想念、つまりこのブログでもつい先日、ダスカロスの真理の言葉からの学びとして取り上げましたエゴイズムの狡猾な思考〈正確にいえば欲望エレメンタル、人-悪魔〉の構造と姦計の手口を白日の下に晒してみせたオーウェルは、わたしの人生に少なからず影響をあたえています。

 

 何の因果か高校時代にわたしをかわいがってくれた新任の英語の男性教師がサマセット・モームのペーパーバック〝ザ・サミングアップ(要約すると)〟をテキストに、二人だけの勉強会を課外授業としてやってくれるとともに、ジョージ・オーウェルの『動物農場』を教えてくれたおかげで、後に1984』を知ることができました。

 

 それだけでなく、この中に自分自身の切実なテーマがあることを発見することにもなったのでした。運命の不思議です。世に言う陰謀論に早くから親しむようになりながら、なぜか日本古来の言霊学というものの中に救いがあることを漠然と感じてきたのも自分らしいところだろうとおもいます。

 

 そういう人間ですから、永遠の革命家である太田龍氏が海図なき人生を漂流してきた末、最後にたどり着いたであろう渚が、言霊だったということを知り、さらに先日出てきた追悼会に出席した唯一の証しとして手許に残っているパンフレットを眺めわたすと、彼の足跡として、家畜制度全廃動物実験全面廃止運動などの文字が見られ、ウィキペディアでも座右の書として、法華経と並んで古事記の書名が挙げられていることなどからも、この方の魂にたいへんに近しいものを感じたしだいです。

 

 

 今現在、わたしは江戸時代に彗星のごとく現れて、誰もが手をつけなかった忘れられた古代の布斗(ふと)()()御霊(のみたま)(一名『火凝(かご)(たま)』と称する)と、伏見稲荷に伝わる『(稲荷古伝)』を手掛かりとして、独創的な神代学を大成し、言霊の五十音の成り立ちと法則を明らかにした大著を遺して逝かれた山口志道をモデルにした小説を執筆しています。

 

 志道という人は、我が国にはもともと(ふみ)もなく文字もない、ただあるのは、神代よりの御伝(みつたへ)のみだとして、何よりもまず文字になる以前の音に注目した人でした。音という字を、オトにではなく、コヱという響きにあてています。人のイキ(氣であり、水火)も天地のイキも一つであって、このイキが呼吸(息吹き)にのって発せられるとき、(コヱ)となるのだと。これが(かたち)をあたえられ、形仮名(かたかな)となったのであって、この形仮名は人間が創ったのではなく、神の霊の御象(みかたち)なのである、という説をいくら人智で考えようとしても、それは無理というもので、ここから始まらないことには言霊学とは名ばかりの俗学に流れてしまう危険について警鐘を鳴らしています。こうして、志道は、漢書(からふみ)(から)(ごころ)を徹底して嫌い批判し、排斥した宣長や篤胤とはまた異なった立場から、宇宙的ともいえる言霊の言語観を打ち立てました。

 

 この小説を構想させ書かせる衝動となったものがあり、なかなか言葉にするのは困難ですが、きっとデーヴィッド・アイクや太田龍、そしてジョージ・オーウェルといった人々の叛逆魂ともいえるスピリットの底流を脈々と流れる共通の魂の願いを自分もたずさえているのではないかという気がしています。そして、もう一人、山口志道という我が国の霊学の大家も、彼らとは同じソウル・グループに属している感じがしてなりません。

 

 今生日本人として生まれたわたしの眼には、あの清冽な魂の持ち主である吉田松陰(たしか五井昌久先生が松陰に関してキリストの十字架の話をされています)が生きた江戸時代、わたしがいちばん尊敬する小説家である山岡荘八が小説『吉田松陰』で描いた時代と現在とが重なって見えています。

 

 そして、現在わたしたちの直面している国難というものを乗り切ってゆくための智慧が志道のなかにあると確信し、それは今もちゃんと宇宙図書館に保存されてあることを感じてもいます。そこに置かれたアカシック・レコードという智慧の宝庫であるアーカイブスにアクセスしつつ、祈りと印を毎日行いながら霊感を得て進めています。

 

 すでに出版されている千三百頁を超える超長編小説『しじまの彼方から』上下巻(Amazonペーパーバック・オンデマンド)をお読みくださった方もいらっしゃるとおもいますが、現在執筆中の作は舞台はいちおう日本の江戸時代でありながら、無茶苦茶今日的な日本人と人類の共通の問題への取り組みへの指針となることをめざして頑張っておりますので、どうぞご期待ください!!

 

 

しじまの時間 アーカイブより

 

 

◇参考記事

 

しじまの時間 アーカイブより