きのうのうちにアップする予定が、どんどんずれて、もうおとといのことになりますが、4月21日は父の祥月命日でした。4日間のショートステイを終えてもどってきた母はあまり調子が良さそうではなかったし、天候も夕方から夜にかけ雨が降るとの予報があったのでしたが、おもいきって三人で鎌倉のお寺へ墓参りに行きました。

 

 

 しかし、心配された天気も墓参りを終えるまでなんとかもちこたえてくれました。お供えの花を買うのはたいてい寺の近くのコンビニになりますが、今回もコンビニでいいのがあるかな、だいじょうぶかな、とおもいつつ店内にはいってすぐのドア付近に数ある花束のなかからパッと目にとまった花束があり、迷わず手に取りました。内容的にも組合せ的にもベストなコンビネーションと感じてうれしくなり、レジーに向いました。

 

 

 さて、お寺に着くと、3年前くらい前までは母も車椅子から降りてもらい、なんとか墓前まで行ってお参りしてもらっていましたが、現在の脚力では段差が多い墓地内はとても無理。そこで休憩所で待っていてもらうことにし、妻とわたしと交替でお墓参りすることにしました。初めての試みとして、まず先に妻が墓石の周りを掃除してくれていたおかげで、その場の波動は気持ちのよいものとなっていました。線香と花を供え、この29年のことを感謝し、冥福を祈るとともに父祖にたいしこれからの生き方についての決意を報告し、守ってくださるよう祈りました。

 

 

 

 すっきりとして静かな心持ちでもどってくると、車のフードの上になんと猫がいるではありませんか。

 

 

  少し離れたところからそっと見ていたのですが、妻がなにも知らずにそこにやってきて、猫の存在をおしえてあげるとびっくりして声をあげました。それでも、猫は動かずじっとしています。

 

 

「きっとお父さんだよ」どちらからともなくそういう言葉が出ました。二人の感じ方は一致していたのです。こういうのがテレパシーというのか、とおもいました。猫から出ている波動がわたしたちの肉体細胞に届いて、メッセージを受け取ったのにちがいありません。

 

 

 父がお礼の気持ちを伝えている。わたしたちは、そう信じて疑いませんでした。そして、休憩所に待っていた母のところへ行き、真正面に猫の見える場所に車椅子を動かし、三人並んで猫(父)と向き合いました。

 

 

 なんとも不思議なことですが・・・・・・長年、お彼岸や祥月命日に墓参りをしてきて、こんな経験をしたのも初めてでした。

 

 

 

 

 もう一つ、不思議なことがありました。じつは、お寺の副住職様が昨年の11月にお亡くなりになりました。(浄土真宗では「往生の素懐を遂げました」という表現を用いるのだと葬儀の案内状で知りました。)わたしよりも二歳ばかりお若く、ご老体のお父様であるご住職とお子さんがあとに残されることになっただけに、お通夜に参列したその場の空気は雨の晩ということもあってかいっそうしめやかな雰囲気につつまれていました。歌舞伎界とおなじく仏教寺院は世襲制ですから、昨年のうちに副住職療養中という報せとともに、成人前のお子さんは教育(修業)に出されることになったと檀家(正しくは浄土真宗では檀家のことを門徒と呼びますが)に報せの葉書が来ていました。

 

 そのお子さんの年端もゆかぬ幼少のみぎり、「カ、カ、カ……」といって蚊を追いかけていた、いたいけな姿だけが脳裏に焼きついています。それだけに、すべてがさだめとはいえ、この世の無常と運命にあらがうことのできぬわたしたち人間存在に哀れさをおぼえて、このたびの墓参りでは寺の境内にも墓地にもいつにない寂しさが漂っているのが感ぜられたことでした。

 

 また、この日は母がとても調子が悪くて、あとで妻から聞いたところによれば、精神的に落ちこんでいると本人が語っていたそうなので、きっとショートステイ中に人と比較するなどして、自分のことを悲観してしまったのかもしれないねと、などと語り合っていました。

 

 帰宅してから、その一日のうちにあったことを思い出していると、あちらの世界に移行された副住職様から頼まれた感じがしてご本人のご冥福から今後わたしたちとともに世のために大きなお働きができるように、そして第何世かは存じ上げませんが、後を継がれる法嗣であるご子息の天命の完うされんこととともにお寺の興隆までもお祈りしました。

 するとどうでしょう。まったく予期もしていませんでしたが、翌朝になってみると昨日のことがうそであるかのように、母の調子がすっかり回復していました。なにもかもが新鮮です。ゴミ捨てに外に出てみると、きのうとは打って変わっていいお天気で初夏の強い日射しが降り注いでいました。

 

 そして、昨日一日、母はあたたかな光につつまれているかのような、安堵感や静かな喜びに溢れ、顔の表情もよく、話す言葉も平和と幸せそのもの、感謝の言葉に満ちていたので、「あれ?これは不思議。墓参りに行ったことと関係あるね。もしかしたら、お父さんやご先祖だけでなく、副住職様が喜ばれ、応援の光を送ってくれているのかもしれないね」と、二人で話しました。

 

 

 

 

 ところで、墓参りの帰りに食事のために立ち寄った店がありました。車が置けて、車椅子でも入りやすいところにしたのですが、安易に選んでしまったかなと後悔しました。というのも、オーダーを取りに来た従業員が何回も注文数をまちがえたうえ、品物が人間の手によってではなく、給仕ロボットとでも呼びたくなるA.Iにより、席まで運ばれてきたからです。それもなんの予告もなく、予備知識もなく。生まれて初めての体験でしたが、無人でしかもいきなりロボットがわたしたちのいるテーブルに近づいてきて、

 

「オ待タセシマシタ」と、音声が流れました。

(ちょ、ちょっと……)

 

 

  注文の品を取ったら、ボタンを押してくださいと説明書きがあるのが目に入り、指示に従うと、

「アリガトウゴザイマシタ」と、また音声が流れました。

 

  そして、そのまま向きを変え、もと来た方向に帰って行きました。

 

 

 さすがにショックを受けました。

 

 ひとつ前の記事で、心が和む感じのよい美味しいお蕎麦のお店のことを書きました。今回は、あのときの体験とは対照的な体験です。

 

 

 とはいえ、いつも書いていますように、すべてはわたしたちの意識しだい。どんな想いをいだくか。わたしたちは創造者です。どういう質のサービスを求めているのか。省力化でコストダウンするのがネライにしても、それならそれで安い価格で提供されるかといえば、そうでもない。味も落つる。心が全然感じられぬ。となると、どうなんだろう。

  いずれにしても、選ぶのは消費者であることに変わりはないとなれば、わたしが生き残って栄えてほしいと感じるお店は応援したいとおもいます。

 

 

 いま現われている現実や報じられている世界の出来事は、あくまでもこれまで人類が信じてきたことの結果です。物質主義的な価値観によって踊らされてきた人々の考えと行動こそが、真実やまごころを大切にするよりも、〝今だけ、カネだけ、自分だけ〟といった欲求を満たすことに一生懸命な社会を築きながら、その陰でおぞましい(はかりごと)や計画が実行されてきたのだという点に気づいたなら、もはやだれを(うら)むことも文句をいうこともできなくなるはずです。

 

 

 スーパーの精算機でもレストランのオーダーやサーブでも、こんなロボットやA.Iにやってもらう社会なんて味気ないな、これからは悪くなる一方なのかと、「果(結果)」のみを見て、落胆や心配の想念に心を占めさせるのでは、それがまた新たな「因(原因)」となり、波動の低い現実を創造するのに手を貸してしまうことになります。

 

 

 だから、今目の前に起きている望ましくない現実を結果として招いてしまった自らの観念や思考のありかたをもう一度見つめなおして、もしそこに誤りが認められたならひたすら軌道修正に努めてゆくということは、意識的に「因」に働きかけることになります。

 

 アダムスキーが伝える「宇宙の因」につねに意識の波動を合わせ、高い次元からインスピレーションを受け取りつつ、真我の喜ぶことへと心の舵を切ってゆくことこそが大事かなとおもいます。

 

 

 

 ちょうど、きのうの朝起きてから、『魂の旅』(ロザリンド・A・マクドナルド)という本を読み、夕方には、久々に『天国への階段』(ローナ・バーン)を読みました。前者には「奇跡は日常的に起きている」と書かれてあり、後者には、絶対絶命のピンチでも天使に励まされ、助けられ、切り抜けた著者自身の体験が書かれていました。

 

 

  わたしにとってのこれら二冊から得た共通のギフトは、「どうにもならないように見えても、かならず困難は打開できるのだ」という「安心感」と「信頼感」でした。

 

 

 マスメディアを使っての情報戦に翻弄されてはいけない。政府やまわりの人たちが安全、安心ということを鵜呑みにしてはいけない。当然のことですが、自分の魂としっかりとつながっていない人間は、簡単にコントロールされますから、そういう波動の磁場が転換(農薬や化学肥料塗れの慣行農法の耕地が有機ないし自然農法の耕地に転換するのに三年とかの歳月を要するように、想念の磁場も一人ひとりの目覚めのために地道な努力が必要です)してゆけるのに少しでも貢献したいと、決意を新たにしたのでした。